チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

六氏先生の碑に詣でる

 

 

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六氏先生の写真

 

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六氏先生遭難の碑

 

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碑の周りで子供がかくれんぼをしていた

 

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故教育者姓名、この碑が4枚ある。

 

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閉っていたが展示室を窓から撮った

 

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神社であったことを偲ばせる石段

 

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士林駅前 206番のバスで6番目


六氏先生の碑に詣でる

■芝山巌(しざんがん)へ
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

MRT淡水信義線・士林駅で下車する邦人観光客は少なくない。台北でも最も賑やかな士林夜市はこの駅前から始まっている。また世界4大博物館の一つ、故宮博物院へは士林駅からバスで行くことになる。駅前にはひっきりなしに故宮博物院行きのバスが停車し、観光客を乗せて慌ただしく走り去っていく。

博物院方面ではなく、士林駅から206番、天母行きのバスに乗って約15分、6番目のバス停が芝山公園だ。八田興一、根本中将ゆかりの地を巡ってきたが、台北ではこの芝山公園にある六氏先生の碑を見たいと思っていた。戦前、台湾を訪れた日本人は必ず、六氏先生の碑に詣でたという。

■芝山巌事件
1895年、下関条約により台湾が日本に割譲され、日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。

最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。

1895年の暮れになると台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年1月1日、6人の教師と用務員が元旦の拝賀式に出席するために芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラに遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、7 人を殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に再開された。


「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。

楫取(かとり)道明(山口県華族、38歳、吉田松陰の甥)
関口長太郎(愛知県士族、37歳)
中島長吉(群馬県平民、25歳)
桂金太郎(東京府平民、27歳)
井原順之助(山口県士族、23歳)
平井数馬(熊本県平民、17歳)
ウィキペディアより)

■事件その後
彼らの命をかけて教育の必要性を説いた姿は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の教育者に影響を与え、多くの教師が危険を顧みず陸続として台湾に赴いた。統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。

1930年には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾で殉職した教師が、台湾人を含め、1933年までに330人祀られた。

■歴史に翻弄
戦後、日本色を一掃しようとする国民党の支配が始まり、神社は破壊され、六氏先生を惨殺したゲリラは侵略者の手先を成敗した抗日義士として称揚された。
芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建されたのは事件から100年余経った1995年、李登輝総統の政権の時だった。

芝山公園は台北盆地を見下ろす丘にあり。緑に囲まれ、市民の散歩道となっている。神社の名残である100段余りの石段を登る。登り切ると、事件のあった1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」が目に付く。伊藤博文の揮毫、幅60㎝高さは約3m。戦後、この石碑は国民党政府によって引き倒され、大きなベンチになっていた。しかし、郷土の歴史を物語る遺構として、2000 年に建て直された。

石碑の近くには台湾の地で殉職した教師たちの名が刻まれた石碑が4枚ほどある。一度は叩き壊されていたものを復元したものという。女性の名も台湾人の名もある。台湾を日本と同じように、という先人の気概と、それに引き換え戦後の我々は、の思いを抑えることができなかった。