パヤオ湖の夕暮れ
同上
同上
若い二人
パヤオ湖 チェンライから100キロ南にある湖
教えること、学ぶこと
2007年2月にアップした記事を加筆訂正の上再録します。
■教師の悩み
今年(2007年)1月初めにアップした「バンク・カレッジのクラーク先生」には、読者より珍しく4通のメールを頂いた。書いたものにこのように反響があるのは大変嬉しいものだ。もちろんクラーク博士と自分を比ぶべくもなく、引き合いに出すことさえ畏れ多いのは重々承知であるが、博士が札幌ですごした期間と同じ8ヶ月をウ国で暮らしてみて、博士のように輝いていたかどうか、生徒にしっかり伝えるべきことを伝えたであろうかという自分自身の反省の気持ちがあったことは確かである。
大学卒業以来30数年、一般企業に勤めて、国内営業、輸出、広告宣伝、企画、監査、総務といった部署に籍を置き、その間、経済産業省関係のシンクタンクや直接金融の財団等に出向したが、まずまず普通のサラリーマン生活を送った。もちろん教職についたのはウ国へ来て初めてである。
長期の海外勤務や留学の経験がなく、ロクロク英語が出来ないにも拘らず、英語で授業をしなければならない(英-ウズベク語通訳つき)ことも頭が痛かったが、それよりもどうやってベンチャー論をビジネス経験のない生徒にわかってもらえるか、という問題に頭を悩ませた。
あるビジネスコースでロシア人教師がやっているようにバブソン大学のジェフリー・A・ティモンズ教授の「ベンチャー創造の理論と戦略」(New Venture Creation - Entrepreneurship For The 21st Century)を読み上げるというやり方もあったと思う。(この本は60カ国で翻訳され、今でもベンチャー論のバイブルとして多くの大学で教科書として使用されている)
■張良の逸話から
長く教壇に立っている人には当たり前でそんなことも知らなかったのか、と笑われるかもしれないが、生徒にわかるように教えるという考えは傲岸不遜、独りよがり、木によりて魚を求むに近い話であるとわかってきた。
内田樹という人の書いた「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)という本の中に、教えること、学ぶことの究極の例として、能楽の「張良」の逸話が紹介されている。
後に漢の将軍として武名をほしいままにする張良、彼が浪人時代に、武者修行の旅先で、黄石公というよぼよぼの老人に出会う。老人は、自分は太公望秘伝の兵法の奥義を究めたものであるが、お主は若いのに修行に励んでいてなかなか見所があるから、奥義を伝授してあげようと申し出る。
張良、喜んでそれからは「先生、先生」とかいがいしくお仕えするのだが、この老先生、そういっただけで何も教えてくれない。いつまでたっても何も教えてくれないので、張良のほうもだんだんイラついてくる。そんなある日、張良が街を歩いていると、向うから石公先生が馬に乗ってやってくる。そして、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓(くつ)を落とし、「取って履かせよ」と命じる。張良は内心、むっとしたがここは弟子だということで黙って拾って履かせた。
別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った石公先生に行きあった。すると石公先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として「取って履かせよ」と命じる。張良はさらにむっとしたが、これも兵法修行のためと、甘んじて沓を拾って履かせた。と、その瞬間、張良すべてを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義をことごとく会得して、無事に免許皆伝となった。 (おしまい)
「張良」はここ数百年、日本人の教育実践の例として、特に芸事の奥義伝授の極意として機能し続けた。よくわからない、という方は内田先生が自らの「張良」解釈を数ページにわたって述べておられるので、「先生はえらい」を手に取っていただきたい。
■学ぶ側の問題か
禅にも「卒啄同機」という言葉がある。卵から雛が孵るとき、卵の内側から雛が、外側から親鳥が殻を同時につつくときに新しい生命がこの世に誕生する。師匠から弟子への仏法の相続、伝授の様を表現したものだ。
教える側だけの努力でわかってもらう、理解してもらうということはそもそも成り立たない。学ぶ者の定義とは「自分は何が出来ないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に表現できない者である。学ぶのは学ぶもの自身であり、教える教師ではない。学ぶ側さえしっかりしていれば、自分が教壇でチョークをぽろりと落としただけで、ベンチャー論の真髄をことごとく会得できる・・・・・はずである。