チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

プレー旅行(6)

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プレー旅行(6)

■セーリータイ博物館続き
ジアップ先生によると説明文には、中村中将は抗日組織である「自由タイ」の不穏な動きを察知していたが、日タイの流血を見ないよう放置した、と書かれているという。ネット上では原爆模型が展示されていること、抗日組織の展示をもって日本を批判的に扱っている博物館と決めつけ、日本はタイにも迷惑をかけた、と書く自虐的な記事が散見される。しかし中村中将がタイ国民に信頼されていたことが客観的に述べられているし、原爆も投下された事実と共に正確な犠牲者の数を淡々と説明しているだけだ。日本非難の文言はない。

タイ国内の「自由タイ」構成員は5万人を数えたというが、北タイの抗日組織の中核、「プレー自由タイ」は500人ほどであった。この博物館の主眼は、如何に「自由タイ」が、また「プレー自由タイ」が、タイの独立維持のために頑張ったかに置かれている。
ジアップ先生は、へー、自由タイってすごかったんだねー、という感想を漏らしていた。米英の指導があったとはいえ、自由タイがどれだけの実力を持っていたかはわからない。ある論文によると「自由タイ」の名称がつけられたのは戦後になってから、という。タイ人が自画自賛するほどの影響力はなかったのかもしれない。

■自国の歴史に虹を見る
英国の言語学者オーエン・バーフィールドは「歴史は虹のようなものだ」と言っている。先頃、亡くなられた渡部昇一先生は、この言葉をこのように解説している。

「彼は『歴史的事実』と『国史』すなわち一国の共同表象になる歴史を区別した。歴史的事実は中央、地方、対外の出来事などなど無数にある。しかしそこに虹を見ようとするなれば、特定の視点と距離が必要である。雨が上がったからといってどっちを向いても虹が見えるものではない。視線の方向が重要である。また虹をもっとよく見ようとして近づけばよりよく見えるものでもない。虹にあまり近づくと虹は消えてしまう。つまり国史というのは無数の水滴の中に虹を見ようとする行為に似ていて、無数の歴史的事実の中に、その国民の共通認識となるような虹を見ようとする行為というべきものなのである」

虹を構成する水滴は塵も含まれているだろう。化学物質も含まれているかもしれない。歴史もきれいごとばかりではないだろう。しかし、無数に存在する水滴に虹を見るように、子孫に誇るべき国民の共通認識を歴史として伝えていく、これは大切なことだ。

抗日組織、原爆模型、これだけ見て日本はアジアに迷惑をかけた、だから原爆も仕方なかったのだ、と自虐史観に陥る一部日本人よりも自国の歴史に美しい「虹」を見ようとするタイ人のほうがよほど品格が高いというべきではないか。この博物館は地元の小学生が課外授業で訪れる場所となっているようで、床に座り込んだ子供たちが展示説明を聞いている写真が飾られていた。故郷と先人に誇りを持ち、祖国を大切に思う、こういった当たり前の教育はタイでも行われている。
それに引きかえ日教組は、といくらか気分が滅入ってしまう。

■物価が安い
博物館の中は誰もおらず、照明がないので暗く、置かれている扇風機も回っていなかった。30分も見学しただろうか、とにかく暑くて汗が噴き出す。モーホームの購入に時間を取られたので、もう昼飯時だ。博物館のあるパラドーンホテルの斜め向かいに食堂があった。カオパット、クイッティオなど昼食の定番が一皿30Bだった。チェンライならば通常一皿40B、物価が2,3割安い。

タイでは地域によって物価が違う。物価が違うから政府の決定する最低賃金も県によって違う。2012年の日額最低賃金バンコクプーケットでは300Bだが北タイのパヤオでは222Bだった。それが2013年に全県一律で300Bに統一されたが、2017年の改定では地域別に引き上げ幅が異なり、据え置きという県もある。プレーは人口も少なく、大きな産業もない。観光といっても足の便がよくないから、集客力に乏しい。そういえばチェンマイ、チェンライでよく見かけるファランの姿を街中で見かけることがなかった。博物館には短時間しかいなかったが、ファランはもちろんタイ人の入場者もいなかった。


ボリューム満点のカオパット30Bを食べ乍ら、さて、次はどこに行こうか。モーホームは2着も買ったし、セーリータイ博物館も見学し、旅の主目的は達した。博物館見学でいくらか疲れを感じたので、どこかエアコンの効いた部屋で昼寝など、とも思ったが、せっかくやってきたプレー、格式の高いお寺に参詣して戦没者への感謝と日本国の弥栄の祈願をしよう、そう決めて腰を上げた。(続く)