「美しくない」という直感
■捏造記事
元朝日新聞記者の植村隆氏が「慰安婦記事を捏造(ねつぞう)した」などの指摘で人権侵害を受けたとして、文芸春秋と東京基督教大学の西岡力教授に損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを起こした。訴状によれば、植村氏は記事や論文などの指摘で社会的評価と信用を傷つけられ、ネット上の人格否定攻撃や家族への脅迫、勤務先大学への解雇要請などを招いた。こうした人権侵害から救済し保護するために司法手続きを通して「捏造記者」というレッテルを取り除くしかない-としている。
この提訴には170 人もの弁護団が付いているという。また姜尚中、内田樹氏をはじめ1500人からなる「北星学園大学を応援しよう負けるな北星!の会」なる団体が植村氏に対する卑劣な言論テロと戦っているそうだ。植村元記者は、いまや学問、言論の自由、ひいては民主主義を守るヒーローとなっている。
西岡教授が植村氏を名指しで批判したのは、文芸春秋1992年4月号の論文においてである。その時にどうして訴えるなり、反論するなりしなかったのか、理解に苦しむ。
植村氏は産経、文春の度重なる取材要請には応じていない。しかしニューヨークタイムズ、東京新聞、韓国のハンギョレ新聞の取材には応じ、右翼から脅迫を受けていると訴えている。家族が被害を受けていることには同情するが、それは反論すると言いながら逃げ回っている彼の態度にも問題があるのではないか。自分も植村記事を不快に思っている一人である。
1991年、彼は韓国人慰安婦の証言として「女子挺身(ていしん)隊の名で戦場に連行された」と書いた。母は高等女学校を卒業した後、海軍工廠で女子挺身隊員として働いていた。そこで技術将校だった父と出会ったわけだが、父母のなれ初めを聞かれた時、相手が挺身隊に誤ったイメージを持っているのでは、と躊躇してしまう。これはあの記事のせいだ。記事は録音テープをもとに書かれた。そのテープで元慰安婦、金学順さんは挺身隊出身とは言っていない。取材もせずに出鱈目を書いた以上、捏造と言われても仕方ないではないか。
■住む世界が・・・
植村氏は「生存権」という言葉を使って、「捏造記者」の汚名を晴らしたいという。
彼は55歳で朝日を早期退職している。年金はまだ支給されない。関西の大学の教授になるはずだったが「右翼のバッシング」によりその職を失った。非常勤講師の時給は高くはないが、無収入というわけにもいくまい。韓国人を妻とし、お義母さんは「太平洋戦争犠牲者遺族会」という反日団体の会長だった。もし捏造記事、と認めれば家庭は壊れる。職も失う。これまでの友人知人は離れていく。保守の人が友人になってくれるわけでも産経が教授職を紹介してくれるわけでもない。そうであれば、捏造ではない、と言い続けて反日の世界に生きるしかない。
植村氏に腹を立てていたが、今はこうまでして見栄を張り、生き恥をさらさなければならない、可哀そうな人だなという気がしている。拙稿「所詮、サラリーマン」で書いたように、自分だってもし、朝日に入っていたら植村氏と同じ社風に染まったのだろう。
■論理と直感
政治評論家の加瀬英明氏によると、世界の先進国の中で唯一、日本だけが精霊信仰(神道)を奉じているという。
日本人は太古の昔から直感によって、万物に神霊が宿っていると、信じてきた。日本人は全宇宙が神聖だと、直感した。仏教とともに、日本に中国大陸から、論理的な考えかたが入ってきた。神道は直感によっているから、知性を働かせる論理と、無縁である。
中国やヨーロッパや中東では、論理が直感を圧倒するようになったのに、日本では神道が今日まで力をまったく失わなかった。
中国やヨーロッパや中東では、論理や、詭弁による争いが絶えることなく、論理を用いて組み立てられた善と悪を振りかざして、権力を争奪して、王朝が頻繁に交替した。
日本人は直感を大切にしてきたから、論理によって支配されることがなかった。日本では人が身勝手に決めることができる善悪ではなく、何が清らかで美しいか、何が穢(きたな)くて汚れているかという感性を、尺度としてきた。
「吉田証言」の誤報を認める前、朝日新聞は、産経新聞や門田隆将氏に「謝罪と訂正記事の掲載」を要求し、それをしない場合は、「法的措置を検討する」という脅しの抗議書を送っている。
植村提訴に際し、朝日弁護団は西岡教授だけでなく順次、植村批判をした人々を訴えていくという。言論ではなく、法的措置で脅しをかける朝日と植村氏のやり方を「美しくない」と感じるのは自分だけであろうか。
「所詮、サラリーマン」は下記のURLで読めます。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/54596007.html
写真はチェンライの市場