チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

介護ロングステイ10ヶ月

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介護ロングステイ10ヶ月

チェンライに来てから10ヶ月経った。月一度の病院に行く。もう顔馴染みになった病院の看護師さんやダーン・ヤーと呼ばれるアシスタントのお嬢さんたちが母に挨拶してくれる。ダーン・ヤーのダーンは歩く、ヤーは薬の意味だ。薬やカルテを運ぶ病院職員ということになるのだろうが、病院にはこの女性の数がやたらに多い。外来診察室が5つほどあるがその部屋の前にそれぞれ1,2名の准看護師さんと2,3名のダーン・ヤーがいる。患者を呼び入れたり、診察前の血圧測定などをするが、診察が長引いている時はみんなでおしゃべりしている。時にはしゃがんでテーブルの下から何かお皿を出して食べている。余り日本の病院待合室では見られない光景だ。

待合室で診療を待っていると、ダーン・ヤーがお盆の上にお茶や水を入れたコップを持ってきて、サービスしてくれる。これも始めは新鮮に感じたものだ。今では待合室片隅のテーブルに並べてあるコップを持ってきて、お茶や水を飲むこともある。診療を待っている人の中にはバッグの中から果物やお菓子を出して食べている人もいる。誰でも何処でも食べる権利はあるのだ、とタイの人は思っているのであろうか。

プルーム医師の診察はいつもながら簡単、はい、両手を挙げて、兄に促されて母がばんざいをする。それでは足を上げて、母が足を持ち上げる。プルーム医師は、おお、良くなっている、と大喜びだ。前は大声で叫ぶだけでしたのに、落ち着いています。大変結構です。それでは同じ薬を出しておきましょう。医師である以上、治療効果が上がっているように見えれば、やはり嬉しいのだろう。アルツハイマー症のように決して完治しない病気でも、だ。

しかし、一緒に暮しているから分かるのだが、母は少しずつ衰えてきている。まず、声が小さくなってきた。チェンライに来た当初、夜に絶叫すると2階まではっきり聞こえていたが、今ではくぐもったような声で、何を言っているのかうまき聞き取れないことがある。アルツハイマーが進むと日中寝ていることが多くなると言うが、朝は食事のあとベッドで寝ているし、午後もソファでうたた寝している。起きているときは体の不調を訴えることが多い。

また前より気難しくなってきているように思う。お母さん、タイのオバサンがお母さんのこと可愛いね、と言っていたよ、そうかい、ありがとう、といった他愛ないやりとりも、最近では、お母さん、可愛いってよ、何バカなこと言っているの、この子は。パチンと平手打ちが飛んでくることがある。早くして、早くして、とせがむので、何を早くするの、と聞くと、分からない、と言って苛立つ。夕方の散歩(と言っても母は車椅子)の時、余り歌を歌わなくなってきた。旧制女学校でいつも独唱していたという母は、我々が小さいとき、いつもきれいな声で歌を歌ってくれた。

こちらに来た当初は、よく文部省唱歌を歌っていた。「我は海の子」という唱歌は7番まであるのだが、ついさっきのことは忘れるのに、昔の歌の歌詞は驚くほどよく覚えている。7番の歌詞は「いで大船を乘出して、我は拾はん海の富。 いで軍艦に乘組みて、我は護らん海の國」と言うもので、今の歌集には載っていないだろう。

車椅子を押して住宅街を30分ほどかけて歩く。南国であるからいつでも何か花が咲いていて、緑が一杯だ。団地内に公園があって、芝生の上を子供達が走っている。あちこちからサワディー・カーとかこんにちはと声がかかる。母はご苦労様です、と頭を下げる。赤ん坊をわざわざ母に見せてくれる奥さんがいる。母は可愛いねえ、可愛いねえ、と言って奥さんを喜ばせる。こんにちは、とか可愛いという日本語の単語を知っているタイ人は多い。

去年の11月に老人専門病院の医師から余命3ヶ月と宣告されて、暗澹とした気分になったが、あれから1年過ぎた。お母さん、具合が悪い、もう死ぬのかねえ、と不意に言うことがある。そんなことはないよ、長生きしてね、というのだが、少し気にはなる。チェンライは今乾季に入った。最低気温は15度、日中は25,4度、まるで高原にいるような爽やかな気候だ。青い空を見るとこれからもずっと母の穏やかな日々が続くような気がしてくる。