チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイ日本友好記念館(その5)

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タイ日本友好記念館(その5)

チェンマイから130キロほど走るとパーイの街に着く。チェンライとメーホーソンの中間に位置する街だ。標高が450メートルほどあり、チェンマイに比べてかなり涼しい。何時のころからファラン(西欧人)がよく来るようになり、芸術家も多く住むようになった。外人目当てのレストランやスーブニールショップ、洒落た珈琲店が軒を連ね、タイ北部の街としては洗練されている。タイの軽井沢、といったところか。近郊は温泉が沸いていて、いくつかのスパリゾートがある。2,3年前、パーイが舞台となったトレンディ・ドラマが放送され、パーイは一躍、タイ全国に知られるようになった。パーイで絵葉書を買って、色鉛筆で、今、私はパーイにいます、と書いて出すのが、タイの若者の間では大層カッコいいことになるのだそうだ。オジサンにはどうしてカッコいいのかさっぱりわからない。

パーイで休憩タイムを取る。吹き抜けの珈琲店で、珈琲を飲む。余りトレンディではない熟年男3人で、街行くファランを眺めて、どうして外人が多いのか、と語り合う。もちろん実りある議論にはならない。一説にはパーイまでは警察の手が伸びず、ガンジャ(大麻)がほぼ自由に吸えるので、ファランが集まってくるというが確かめようがない。ただ昔からタイ北部からミャンマーラオスのいわゆるゴールデントライアングルでは阿片が栽培されていた。今でも大麻、阿片、ヤーバー(覚醒剤)といった麻薬目当てのファランがやって来るということは事実だ。

ここで兄に交代して自分が運転する。パーイ市内を抜けて1キロもしないうちにまた、道はヘアピンカーブの連続となる。時折現れる牛の群れに注意しながら、標高差1000メートル以上の道を走る。ロンリープラネットの英語版には、「景色はいいが、若い人は車酔いする」と書いてある。こちらは若くないせいか車酔いはしなかったが、左後部座席の兄はカーブで左側から右端の方へ滑ってしまい、あわててシートベルトを締めていた。

時折、オートバイに乗った若い白人のグループとすれ違う。パーイでバイクを借りて、メーホーソンや1095線沿いにある温泉や洞窟にツーリングすることが流行っているらしい。乾季であればバイクツーリングも爽快であろうが、雨期はかなり危険である。この日も朝は曇りであったが、山越えの時、霧に包まれ、メーホーソンに近くなってきたらポツポツと雨が降ってきた。メーホーソンに着いたのはもう1時を過ぎていた。バスであったら8時間かかる道を実質5時間で走破した。メーホーソンカレン族が県民の80%を占めるビルマ国境の町である。カレン族はタイにいる少数山岳民族12部族の中で唯一、象を使いこなす。メーホーソンタイ語で「訓練のための大きな谷」を意味するという。ビルマからタイにかけて住む野生象を訓練する場所があったのだろう。メーホーソン観光の目玉となっている首長族もカレン族に属する。

首長族では、女の子が生まれると、金属の首輪をし、年長になるにしたがって首輪の数を増やしていく。5歳で1キロ、7歳で3キロ、10歳で5キロの首輪をするというからラクではない。別に首の骨が長くなるわけではなく、極端ななで肩になって首が長いように見えるということらしい。首長族の少女はメーホーソンの街中を頻繁に歩いているわけではない。250バーツの入場料を払って観光化された首長村へ行く必要がある。更に写真を撮るには1枚40バーツの撮影料が必要という。

メーホーソン市内で遅い昼食をとった後、クンユアムに向かう。メーホーソンから108号線を60キロ南に下る。この道も日本軍が作った。1095線ほどではないがやはりヘアピンカーブが続く。この道でも多くの将兵が斃死した。道の両側には、関係者の建立した慰霊碑がいくつかあるのだが、記念館の開館時間内にクンユアムたどり着くために道を急ぐ。

メーホーソンを出てから、すぐに雨が降り始めた。空は薄暗く、遠くの山は靄に包まれている。メーホーソンを別名、霧の街、と呼ぶことを思い出した。英語では「City of three mists(3つの霧の街)」と呼ぶ。冬の露のような霧、雨期の霧雨のような霧、そして夏のforest fire mistというのだが、山焼きの煙も西欧人にとっては霧の一種になるのだろうか。

クンユアムが近づくにつれて雨足は強くなった。同行のSさんが、こりゃあ涙雨かなあ、歓迎のうれし涙かなあ、とつぶやく。クンユアムは思ったより大きな町で、タイ日本友好記念館がすぐにみつからない。雨の中、何度か村人に聞いて、記念館にたどり着いたのは3時過ぎだったと思う。傘を差しても足もとが濡れる強雨の中を駐車場から記念館入り口へと歩いた。左手に日本軍のトラックの残骸が雨ざらしになっていた。右手に日本軍関係者の建立した戦没者慰霊碑がある。小高いところにある記念館、その正面にはタイの国旗と日章旗が雨に濡れていた。(続く)

画像はタイ日本友好記念館にて