チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本語弁論大会

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ウズベキスタン日本語弁論大会

東洋学大学、サマルカンド国立言語大学、フェルガナ国立大学など9つの大学、機関の参加を得て、ウズベキスタン日本語弁論大会が、過日、日本センター大ホールで開催された。今年で15回目を迎える本大会には楠本大使、高等教育相のほか来賓、関係者200名近くが参集した。
本大会参加の栄誉を勝ち得ようとここ一月、各大学や高校で弁論大会の予選が開かれていた。別に日本語教師でなくても日本人でさえあれば審査員依頼の声があちこちからかかる。自分もタシケント国立法科大学で行われた予選会の審査員を務めた。法科大学での予選会には14名の学生が参加し、1,2位の学生がこの日の大会に出場した。
法科大学は2名、サマルカンド言語大学は5名といった大学、機関ごとの出場枠があり、この全国大会出場者は総勢22名だった。1名の出場者の陰にはそれぞれ、7-10名、予選で涙を飲んだ学生がいるわけで、22名は約200名のスピーカーの代表と言うことになる。この大会の成績優秀者6名は4月にカザフスタンの首都、アルマアタで行われる中央アジア日本語弁論大会への出場資格を得る。

昨年5月にタシケントで開催された中央アジア日本語弁論大会のレポートhttp://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/4560086.htmlで述べたことの繰り返しになるが、彼らはどうして遠い異国である日本にこのようにあこがれるのであろうか。ひたむきな日本への片思いに触れて胸が熱くなる思いがしたものだが、その気持ちは今も変わらない。ただその後、この国での見聞が多少広まるにつれて、単純に若者の日本に対する思い入れに打たれるだけでなく、この国の閉塞感の重さといったものに目を向けざるを得なくなった。

今回のスピーチでも、日本とウズベクを対比させて、この国の暗さをどうにかして克服しようとする若者の率直な意見表明がいくつか見られた。日本は彼らにとって仰ぎ見るような正義、公正、平等、自由といった徳目が実在する国である。
日本に住んでいると、ダムや橋梁を巡っての汚職、談合、ビルの耐震疑惑など日本こそ正義、公正が必要とされる国だ、世界に対して恥ずかしいと思われるかもしれないが、世の中、絶対的に100%正しい人や組織、社会など存在しない。不正の割合がどの程度、と相対的に論じるならば、日本とウズベクでは圧倒的な差がある。

「白くない白衣を着たお医者さん」という題でスピーチをしたタシケント経済大学のアジザ嬢は、医者が救急車で運び込まれたけが人に対して、いくら出せるかを聞き、金額が折り合わなければ、手術はせず患者を見殺しにすると述べていた。健康保険制度の充実が必要と言う結論であったがそういう問題ではないだろう。ヒポクラテスの誓いを忘れた医師が多すぎることが問題なのではないか。あるいは100ドルに満たない医師の月収が問題なのではないか。

今回1位になった東洋学大学のラフモナリ君はウズベクのワイロの問題を真正面から取り上げていた。
ウズベクではワイロのことを「ポラ」という。超難関大学では2万ドルのポラがあれば、まず試験の成績にかかわらず入学できる。また大学に入っても、進級テストの点数が足りない場合、1点につき1000スム(100円、いじましい・・・)を教授に支払えば、その分だけ点数を加算してくれる。こういったことは陰でこそこそささやかれていることではなくて、教授がおおっぴらに授業の中で公言して、集金するのだそうだ。
ポラを出せるのは親ということになるが、学生は親が支払ってくれるとはあまり言わない。私には「タンカ」がついています、という言い方をする。タンカとはタンク、戦車の意味だ。
君、この成績じゃ卒業できないよ、先生、心配しないで下さい、私にはタンカがついています。就職、どうするの?、タンカがついているから何とかなるよ、といった具合である。

日本でも地方自治体などでは有力者にあらかじめお礼を渡して就職を頼むという例があるやに聞くが、おおっぴらではないだろう。通訳べク君が、外交官になりたいので貯金をしなければ、などと変なことを言うので不審に思っていたが、こちらでは就職にポラがいるのは常識のようだ。

ラフモナリ君は「われわれがこのポラとタンカの習慣をなくし、頑張った人が報われる社会を作っていきたい」と述べていた。もし10数年前だったら彼はスピーチの後、シベリア送りになっていただろう。少しは変わっているのだ。そして少しずつでもいい、この社会が変わっていくように頑張っていこうよ、と肩を叩いてあげたくなった。