チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

古事記を読む

 

玉川上水、ネットから

同上

この本

蘭の花

同上

古事記を読む

■読書の始まり

小学生の時、井の頭公園玉川上水の近くに住んでいた。今はちょろちょろと水が流れる小川だが、玉川上水は昭和40年代まで都民の水需要を賄う主要な水源だった。玉川上水独特の事情として、土質の柔らかい関東ローム層を流れるため、水底が侵食されやすく、水の流れる位置が年々低くなっていき、両岸は滑りやすい赤土で、その上、水質を守るため、両岸には鬱蒼と草木が生い茂っていた。そのため、誤って落ちると、容易に這い上がることはできないまま、早い流れに吞み込まれ、気づいてくれる人もなく溺死する人が多く「人食い川」と呼ばれていた。太宰治が入水自殺したのは昭和23年である。当時、両岸の柵はなかったのだろう。小学生の自分は吉祥寺通りの万助橋から上水を数分上ったところにある「有三青少年文庫」によく通った。今の若い人は読まないかもしれないが「路傍の石」、「米百俵」等を書いた山本有三という小説家がいて、彼が大正末期に建築した洋館があった。昭和31年に山本有三から東京都に建物、敷地が寄贈され、彼の蔵書を基にした図書館となっていた。この有三文庫で世界童話全集を読み耽ったことから自分の読書体験は始まる。

高校時代の友人に会うと「お前、国語はできたよな」と言われる。英語も数学もダメだったよな、と言われているようで、それほどうれしくはないが、確かに国語は勉強しなくても点数が良かった。これは小学生からの読書習慣のお陰だと思っている。

ずっと読書と白いご飯は自分の生活から途切れることはなかった。社会人になってもいつも枕元には何冊かの本が置いてあったし、読み返しもしないのにと苦情を言われながらも書棚にはつまらぬ本が積み上がっていた。

 

■読まなくても

それが今はどうか。朝、テニスに行って汗を流した後は、PCに向かって、ニュース解説や音楽を聴いてだらだらと時間を過ごす。読書の習慣はプッツリと途切れた。本を読まなくても生きていけるんだ、とチェンライに暮らして初めて分かった。本が無いわけではない。日本人会のNさん宅には皆から寄贈を受けたフランス書院から講談社学術文庫まで3000冊以上の本があり、誰でも借りることができる。だが寄贈することはあっても借りに行くことはない。

日本から来る人は通常、何冊かの本を持参してきており、帰国にあたってよろしければ、と下げ渡してくれる。だから全く本を読まないということはないが、読むにあたっては、昔と違って、さあ、読むぞといったエネルギーがいる。そのうち、ゴハンを食べるにも気合を入れないと食べる気がしなくなってくるのだろう。

そういう自分であるが、来タイした息子に何冊かの本を持ってきてもらった。この本、読みたいな、という元気がまだあるようだ。そのうちの一冊が竹田恒泰著、「古事記完全講義」だった。古事記岩波文庫で読んだ記憶があるがさっぱり覚えていない。日本とは何かを考えるにあたってまず読むべきは「古事記」である、というユーチューブを見た。異国に住んでいるから、日本とは、日本人とはとよく考える。昔から日本人論は好きで、和辻哲郎内村鑑三渡部昇一などの著作をいくつか読んでいたが、日本のかたちの原点が古事記にあるとは知らなかった。

 

■日本を知る

古事記完全講義は500ページを越える大著で、伊邪那岐命伊邪那美命から始まる神様の名前をたどるだけでもしんどい。でも竹田恒泰さんの講義録は面白く、日本の成り立ち、文化、政治を分かりやすく解説してくれる。この本の前に「安倍晋三回顧録」を読んだが、気配り、根回し、説得、信頼といった情と理の安倍さんの政治姿勢と古事記に描かれた神々の葛藤がダブって見えることがあった。2600有余年、変わらぬものがある。また物事を決めるとき、天照大神が独断で決定するのではなく、八百万の神が集まって合議で決める。なんだ、民主主義の原則は古事記に書いてあるのか。明治天皇の五箇条のご誓文「広く会議を起こし万機公論に決すべし」は古事記に遡るわけだ。

シュリーマントロイアの遺跡を発掘するまでホメーロスの「イーリアストロイア戦争)」はフィクションだと言われてきた。古事記はウソの塊、そのウソを暴くために考古学者、歴史学者になったという左翼学者は今、次々と発掘される古墳遺跡に言葉を失っているという。古事記の内容が次々と考古学で証明されていくからだ。

ところで、古事記では兄弟、姉妹が争うと必ず弟妹がいい目を見る。欧州の童話ではいつも兄、姉は失敗し、末っ子、末娘が幸せになる。これは偶然の一致だろうか。