チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

孤独と自由

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成田空港第3ターミナル

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空港のマッサージ器、タイなら2時間で千円だが・・・

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高松駅の喫茶店

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JRの観光ポスター、愛媛は京都に敵わないと言っているような…

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いずれも2番煎じであることを認めている

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四国のオリジナルをアピールできないものか。


孤独と自由

 

■黙考
学生とか単身赴任で独り暮らしの人は多いと思う。でも週日は学友や同僚、立ち寄ったお店の人など、人と話す機会はあるはずだ。自分は独居老人である。同居人はいないし、行くところはないから一日中、言葉を発しない日がある。それが数日続くこともある。タイで暮らしていた頃、兄が帰国すれば家に一人だったが、女中さんは来るし、コートに出れば仲間がいるし、無言で過ごしたことはない。だから今、生まれて初めてベネディクト派の修道士のごとく黙考の日々を送っている。

朝、目覚めて、布団の中でグズグズと考える。日中は枕許の本をかわるがわる手にして、疲れたら、ぼんやりと天井を見ている。「寝つつ読む本の重さにつかれたる手を休めては、物を思へり」だ。誰にも邪魔されない、本を置いてウトウトとまどろむこともある。そのまま涅槃の世界に落ち込んでいける。これこそ極楽往生だ。でも「タイに戻れなくなった老人が孤独死、保健所は感染症との関連を調べている」と新聞に出ても困る。まあちょっと休んでから食事の支度でもするか。

■料理でボケ防止
タイの地方都市で夜を過ごした。田舎といっても一応、県庁所在地であったから和食店も探せばあるはず、と街を歩いた。チェーン店のラーメン屋があった。中をのぞくと、こちらに背を向けた老人が、丁度ラーメンの丼を持ち上げてスープを啜るところだった。ヨレヨレのTシャツ、短パン、曲がった背骨、テーブルにはビール瓶が見える。タイ人は決して皿や丼を持ち上げない。間違いなく日本人だ。背中に侘しさが張り付いている。肩の上に貧乏神が乗っていたかもしれない。これは数年後の自分の姿だ。そう思うと中に入れなくなった。

単独旅行では仕方ないが、一人の外食は好きではない。タイで見たラーメン老人の姿が重なって、哀しい気分になる。自分で作るほうが気楽である。美味しければ嬉しいし、いまいちの味であれば反省材料となる。料理は上陸作戦と同じだ。まず食材の準備、量にあった鍋を用意、初めに野菜を炒める、調味料の逐次投入、皿への盛り付けまで一連の流れに沿った作業が必要だ。結構、ボケ防止になるのではと考えている。クックパッドのアドバイス通りにやればそれなりの味に仕上がる。作戦要領も大切ということか。

タイではまず食材が揃わない。あってもいまいち、大根は太さ5センチ程度で半分はスが入っていてガサガサ、キュウリも味が違う。援護の艦砲射撃も戦車もない上陸作戦みたいなものだ。東京はスーパーでさえ、ちゃんとした食材が買える。品質にばらつきがないし、品切れも殆ど無い。日本の食材はクールといいたくなる。

自炊の問題点は、何故か作り過ぎてしまうことである。おでんに里芋を一袋、500グラム入れてしまう。蒟蒻は2枚、竹輪は、大根は、と次々に入れていく。練り物は煮ると体積が増える。ツミレも膨れる。そして大鍋の半分くらいと思っていた材料は蓋を押し上げるほどになる。どうやって食べるきるんだよ。1週間はおでんを食べ続ける。

■黙考のお陰で
700ページ近い小説(弧愁サウダーデ)を一気に読んだ。午後3時から読み始めて読み終えたのは11時過ぎだった。夜食は簡単にして読書に没頭、こんな経験は学生の時以来か。ここ十数年の海外暮しで読書の習慣は消え失せていた。その反動で今は常に数冊の本が枕頭にある。本はこれまで知らなかったことを教えてくれる。へえ、そうなんだ、なるほど。本を読むと自分が何も知らないことに気づく。もっと知りたくて図書館に本を予約する。音楽、絵画、歴史にも殆ど無知だ。世の中には膨大な量の芸術、書籍、学問がある。自分が触れることが出来るものはゴビ砂漠の砂粒一つにも満たない。多くの人が同じ想いを持って老い、病を得て、この世から消えていく。

それほどお金のかからない過ごし方だったから、読書に費やした時間は多かったと思う。でも読書によって人格が陶冶されたわけでも教養が身についたわけでもない。なぜかというと何を読んだか記憶に残っていないからだ。時間つぶしだったのだから仕方がない。

小説や映画は作り事に過ぎない。でも佳作であれば自分も同じではないかと登場人物に感情移入していく。それが殺人犯であっても卑怯な男であっても、だ。ネットでは情報は取れるが、読書や映画のように深く人生を想うには至らない。でも情報も感動も同じようにその場限りで忘れていって、世の中わからないことばかりだなあ、とため息をつく。

黙考に沈殿する独り暮らしは自分をいくらか謙虚にするかもしれない。