チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

シーテープ歴史公園(4)

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シーテープ歴史公園(4)

■公園内の道路へ
公園入口から左手に舗装道路が続いていた。シーサッチャナライやスコータイの歴史公園は公園内を車や自転車で回れるよう道路が整備されている。シーテープも同じとみえる。迷うことなくスクータを進める。道路わきには遺跡を示す標識や公園事務所の案内板がある。林の中にラテライトの礎石がクメールの遺跡であることを示している。礎石しかないので、寺だったのか住居だったのか判然としない。他の歴史公園であれば礎石群の傍らに寺の名前や書庫の跡、といった説明板があるのだが、この遺跡公園には愛想がなく、林の中に黒い礎石が点在しているだけだった。所々でスクータを下り、訪問の記念として面白くもない礎石や池、林の写真を撮った。どういうわけか観光客が全く見当たらない。

こんなもんかなあ、と公園内を周回して入口に戻ってみたら、資料センターという建物があった。そういえば小さな博物館があり、ここを見落としてはいけないとネットにあったことを思い出した。センタ―の前にスクータを停める。50mほど離れたところにある検問所の係員がそこに停めるな、と言っている感じがしたが、そんなに長い時間ではないし、とそのまま建物の中に入った。受付のお姉さんが英文のパンフレットを呉れた。

■パンフレットから
シーテープの考古学的研究は1904年、ダムロン・ラチャヌパーブ王子が古文書に記された「シーテープ」という名の古代都市がペッチャブーン県にあるのではないかと、この地を公式訪問された時に始まる。王子が調査を始めた時にはシーテープがどこにあるか誰も知らなかった。王子は独自の調査により、幻の古代都市、シーテープが県のチャイ・バダン郡とペッチャブン郡の間にあるはずと信じた。結局、彼は自分が発見しようと思った都市よりもさらに古い都市を発見した。だがこの遺跡は古文書にいう「シーテープ」ではなかった。王子はウィッチャンブリがシーテープと呼ばれていたので、ここが古代都市シーテープではないかと思った。しかしいくら掘っても考古学的裏付けが得られない。ウィッチャンブリがサモラット山と関係がありそのサモラットから彼が発掘した古代都市と関連する品々が発掘された。ウィッチャンブリはサモラット山の関連でシーテープを仮に名乗っていたことがわかり、サモラットからの発掘品の類似性から初めに発掘した古代都市こそ王子が探していたシーテープと判明した。

パンフレットの英語が回りくどくて、というより自分の英語読解力が低いため、ご理解いただけるかどうかわからないが、概略、上記のことが書かれていた。いずれにせよ、シーテープが発見されたのは比較的新しく、歴史公園として整備されたのも1980年代のようだ。

■資料センター
資料センタ―にはインド神話の太陽神、スーリヤの石像があった。スーリヤはヒンドゥー教ではヴィシュヌ神もしくはシヴァ神の姿の一つとなっている。7頭の馬を御して天空を巡る若者して描かれることが多い。ギリシャ神話のアポロンを思わせる。仏教では十二天の一つ、日天子となる。日天子は観世音菩薩の変化身の一つともされているそうだ。
クメール王朝は13世紀に至ってヒンドゥー教から仏教へ宗旨替えしたから、このスーリヤ像はそれ以前のもの、説明板によると7-8世紀に制作されたという。顔の部分、それも鼻が少し欠けているが正面を見据えた表情から深い精神性が感じられる。この像はシーテープで発掘されたがホンモノはバンコク国立博物館に収蔵されているとのこと。資料センターの石像は皆レプリカのようだが技術が高いのか本物と言われても信じてしまう。フラッシュを使って写真を撮りまくったが係員には何も言われなかった。ま、本物でないからね、どうぞご自由に、といったところか。

■観覧バス
資料センターは2つの建物からなっており、その間のスペースには発掘された神像の一部や石組みが並べられていた。これから修復作業にかかるのだろう。センターを出たところに公園内を回る遊覧バスが止まっていた。すでにタイ人の家族連れやカップルが乗り込んで出発を待っている。おー、こんなサービスがあっのたか。

このバスに乗ったお陰でスクータで見落としていたドヴァーラヴァディー王朝時代のカオ・クラン・ナイと呼ばれる仏教寺院遺跡やプラーン・ソーン・ピーノーン(兄弟の塔堂)やプラーン・シーテープ(シーテープ塔堂)など、後にクメール王朝時代に建立されたヒンドゥー教の遺跡、さらには紀元前1000年に遡る先史墳墓を見ることができた。(続く)


写真はクメールの礎石、資料センターの石像、修復中の石