チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

プレー旅行(4)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

プレー旅行(4)

玉音放送
昭和20年8月15日、先帝陛下により「大東亜戦争終結詔書」が発せられた。この中で陛下は「もともと、国民が健康で安心して暮らせるように、また世界がともに繁栄していけるようにするというのは、天皇家が昔から掲げていた目標であり、私も常々努力していたことである。先に米英に宣戦したのも、我が国が滅ばないように、また東アジアが安定するようにと思ってのことであり、決して他国の主権をそこない、領土を侵略しようと思ってやったことではない」と述べられている。
そして、ポツダム宣言を受け入れた理由のあと、「朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス(私は我が国とともに東アジアの解放に協力してくれてきた同盟国諸国に対して申し訳ないと思う)」とタイ王国との関係に触れられている。

■同盟国
タイは1941年12月に日本と同盟を結んだ。同盟とはお互いの利害が共通するから成立する。日本はタイと同盟することによって、イギリスの植民地であったマレー半島ビルマに侵攻し易くなると考えていた。
まだ列強が進出する前、タイ王国インドシナのほぼ全域、マレー半島の中部、ペナン島、など広大な領土を持っていた。現在のタイの国土面積は日本の1.4倍、約51万平方キロであるが、1867年には123万平方キロと今の倍以上あった。領土の半分以上を列強にかすめ取られてきたのだから、日の出の勢いの日本と組んで失地回復を、と目論んだのも当然である。
タイはアジアの独立国として「大東亜新秩序の建設を担う」ため日本と共に戦った。バンコクチェンマイはB29の空襲を受けている。

■博物館
セーリータイ博物館の展示は4つに分かれている。ー由タイの組織について ▲廛譟室由タイの活動について 1冓討砲ける自由タイの組織について ぢ萋鷦\こβ臉錣僚結とタイの独立。パネルには、この小さな博物館の展示物はすべての人を興奮させるものではないかもしれないが、プレーの人々に彼らの先祖を誇りに思わせるものである、と書かれていた。

ジャングルで使用された無線通信機、軍事訓練で使用された小銃などが展示されている。パネルは英文とタイ語版があったが前者のほうが少ない。外人用とタイ人用で書かれていることが違う、あるいはタイ語を英訳したとしても、かなりニュアンスが違うのではないか。あとで写真撮影したタイ語パネルをジアップ先生に読んでもらったが、タイの独立に、いかにプレー自由タイを始めとしたレジスタンス活動が貢献したかに展示の主眼が置かれていることを知った。

展示物で目を引くものがある。タイ人と思しき人形にカーキ色の軍服を着た若者が軍刀を差し出している。日本兵らしいのは軍服の色と軍刀だけ、頭には野球帽を反対にかぶっており、足は軍靴ではなくキャラバンシューズ。タイに日本が降伏した場面を再現したものらしいが、史実に反するし、人形がいかにも締りがない。やっぱ、これはまずいよな、とタイ人も思ったらしく、2体の人形のバックには大きな星条旗が飾られていた。

■したたかなタイ
タイ人にとって「忠臣蔵」はどうしても理解できないという。死んでしまった殿様にどうして忠義を尽くすのか。タイ人ならその時々の都合で、親分を変える。タイ人留学生を指導した教授が、帰国した学生からはがき一枚来ないと嘆く、結婚式にあれだけ援助したのに、と駐在員の奥さんが女中さんの冷たさを愚痴る。その時の上の人だったから愛想がよかっただけで、今は別の人になびく、これタイ人にとって当たり前。冷たい、人情を知らないと不満をいう日本人のほうが甘い、ということだろう。

先帝陛下も共に戦ったタイに対し、遺憾の意を表されているが、タイのほうがずっとしたたかである。宣戦布告は撤回できるよう摂政の一人プリディが署名していない、そのプリディの下で米英の応援を得て5万人を越える抗日活動組織を作り上げていた。

昭和18年11月に日本は東条首相の下で大東亜会議を開催した。有色人種による世界初の国際首脳会議であった。タイはこの時にすでに日本の敗戦を予測し、ピブン首相も3人の摂政も会議を欠席している。更に首相代理で参加したタイ代表、ワンワイタヤーコーン親王大東亜共同宣言に署名しなかった。常に二股。
日本と同盟を結んだピブン首相は東条首相と同時期に失脚したが、戦後、再び首相に返り咲く。東京裁判がなかったとして東条首相が戦後に自民党総裁、首相になれただろうか。

外交、政治はタイに学べ、と言われる所以である。(続く)