高知で訪れた場所
■土佐山田
日本滞在中に土佐山田の友人宅を訪ねた。
土佐山田は土讃線の駅名で、正式には高知県香美(かみ)市になる。香美市は2006年に香美郡の土佐山田町、香北町、物部村が合併して発足した。人口は1970年には3万6千人だったが、年々人口が減り続け、2010年の調査では2万9千人弱となっている。
香美市から出た有名人といえば、漫画家のやなせたかしさんだろう。香美市立やなせたかし記念館があり、連休中はアンパンマンミュージアムに長蛇の列ができる。宿泊施設、公園などが整備されており、一大アミューズメントセンターとなっている。
香美市に隣接した大豊町という人口4千人ほどの町がある。じつはこの町から高知を代表する人格識見豊かな偉人が生まれている。土佐山田を訪ねたのは物部川に面した里山の友人宅で久闊を叙することが目的ではあったが、この偉人の旧跡を訪ねることも目的のひとつであった。
■山下奉文大将
大東亜戦争勃発時、マレー作戦の指揮を執ったのが第25軍司令官の山下奉文大将である。山下将軍は明治18年に高知県大豊町で医師の二男として生まれた。
マレー作戦は大東亜戦争序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。
ジョホールに達した日本軍は2月7日よりアジアのジブラルタル、シンガポールを攻める。2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本軍は10日足らずで攻略した。イギリスが率いる連合軍は降伏し、約8万の将兵が捕虜となった。これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍史上最大規模の敗北だった。「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」とチャーチル英国首相は自著に残している。
■歴史の転換点
当時、自由フランス軍の指導者であったシャルル・ド・ゴールは、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と述べた。
英国の歴史家クリストファー・ソーンは著書『太平洋戦争とは何だったのか』の中で、日本の勝利を眼前にしたインド人将校や外交官の言葉を紹介している。
日本軍の勝利はアジア人の志気を大いに高めた。武器がイギリス人の手から日本人とインド人の手に移るとともに、英知もまたわれわれの手に移った。とくに日本人がイギリス人よりもずっと折り目正しい聡明な態度をとりはじめたので、アジア人全体が、イギリス人を低級な人種のように思い始めた。
ソーンは、イギリス植民地支配の失墜の最大の原因が、「白人」が面目を失い、打ちのめされたことである、としている。
日本軍撤退後、英、仏、蘭の宗主国は再びアジアを植民地にしようと本国から軍隊を送ってきたが、目覚めたアジアの諸国民は武器を持って立ち上がり、次々に独立を果たしていった。何世紀もアジアに君臨してきた白人に盾突く、このアジア諸国民の勇気のきっかけは山下奉文大将のマレー、シンガポール攻略にあったといってもいい。
■山下大将ゆかりの場所
山下大将はフィリピン、ルソン島で終戦を迎えるが、マニラに護送され、10月に戦犯として起訴された。身に覚えのない部下の罪を被ったのだ。そして12月には死刑判決を受ける。軍服着用は許されず、囚人服のまま絞首刑になった。英米の復讐裁判である。
処刑前に収容所の元部下にこう語ったと言う。
「君達は恐らく復員したら自分達が頑張って、焦土と化した日本を復興させるのだと意気込んでいることゝ思う。そこで私から諸君に言って置きたいことがある。それは、君達が内地に上陸した時、お母さんの膝の上で抱かれてオッパイを飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てゝ欲しい。その赤ちゃんが、きっと将来日本を復興させてくれると思う。そのこと、しっかりと頼むよ」
友人が大豊町役場に問い合わてせくれたが、山下大将を偲ぶよすがは、田んぼの隅に建つ「山下将軍生誕の地」と刻まれた石碑だけとのこと。その石碑の前に立った。昭和17年建立とある。この地で山下将軍も母親の膝に抱かれて育ったのだろう。アジアの人々に勇気と誇りをもたらした点ではアンパンマンより功績が大きいのではないか。前夜は友人宅ですっかり酩酊、二日酔いの頭で取りとめのないことを考えていた。
写真は宮本三郎の戦争画(近代美術館蔵)、降伏時の写真、石碑、石碑に至る道と道わきのコスモス