チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

山下奉文大将の続き

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山下奉文大将の続き

■薄氷の勝利
マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、昭和17年2月8日、ジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ進攻。主要陣地を次々奪取したものの、砲弾が底をつき、攻撃中断もやむなし、と考えられていた。丁度その時にイギリス軍が降伏する。それはシンガポール島への水源があるブキティマ高地を日本軍が押さえてしまったため、長期の防戦は不可能とイギリス軍が判断したためである。

山下将軍は「マレーの虎」と呼ばれたが本人は、虎は憶病で残忍な動物、と言ってそう呼ばれることを嫌っていた。また、フォード自動車工場で行われた降伏交渉において、山下将軍が、イギリス軍司令官パーシバル中将に対し、「即時降伏、イエスかノーか」と迫ったという話が喧伝されているが、これは事実でないようだ。

2月14日、英軍から降伏交渉をしたいとの軍使を迎えた夜のことを山下は次のように記している。

いよいよ英国軍の降伏となったのですが、実はその前の晩、恥ずかしい話だが、私はもう嬉しさで一杯で眠れなかったくらいだった。むかし評判であった乃木大将とステッセルの会見の場面を、夜中に何度も思い出したりした。そして、乃木将軍のように敵将をいたわり、慰めてやろうと、ひそかに考えていました。軍人として、一生の間にこの日をもった自分は、何という幸せ者だろうと、私は涙が出るほど嬉しかった。

ところが、山下の思惑は見事に外れてしまった。敵将パーシバル中将は約束した時間に遅れてきたうえ、緊張のためか落ち着きがなく、キョロキョロしている。

イギリス側は、日本側が示した12条の一つ一つに対して、少しでも条件を緩和しようと粘る。日英双方の通訳も拙くて、なかなか要領を得ない。なぜ潔く降伏しないのか、と山下は苛立った。腹立ちのあまり怒鳴るような調子で、通訳に対して、イエスかノーか結論だけを聞けばよろしい、と言った。
しかし、「イエスかノーか」という言葉は痛烈に、イギリス側の耳朶に響き、交渉は一転して妥結した。

私は通訳の言葉に対して、イエスかノーか、結論だけ聞けばいい、という意味を、その時通訳に言ったので、決して、パーシバル中将に言ったのではなかったのです。ところが、私が直接パーシバル中将に、イエスかノーか返答を詰め寄ったように新聞、ラジオで宣伝されてしまった。
前夜来、私は、精一杯の温情をもって、美しい会見にしようと思っていたのに、そんな気持は無惨にこわされ、その上、勝利に思い上がった傲慢な態度であったごとく宣伝されてしまったことが、今でも私は寝ざめの悪い思いでいるのです。

英国側が交渉で粘るつもりなら、とことん粘ればよいのに、山下の一言に勝手に怯えてしまったとすれば、その程度の敵将を相手にしなければならなかった山下の不運というほかはない。

■軍事裁判
昭和20年9月3日、フィリピンのバギオで米軍との降伏調印式に臨んだ。会場にはマッカーサーの指示で、シンガポールで降伏した英国のパーシバル中将が参列していた。意図的な侮辱であった。
山下大将は戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、昭和20年12月7日に死刑判決を受けた。5人の裁判官はすべてマッカーサーの部下で職業軍人だった。
死刑判決後、山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。

山下につけられた米人弁護士フランク・リールは、指揮官が命令もせず、知りもしなかった部下の戦争犯罪について、責任を問うことは、従来の法理論を覆す悪法になると考えていた。

■山下に惹きつけられた米人たち
リールのアドバイスに従い、山下は積極的な法廷闘争を行った。磨き上げられた拍車付長靴を履き、ありったけの勲章をつけて証言台に立った。山下にとっては、一人でも多くの部下を無事に帰国させ、また祖国の名誉を護るための戦いであった。

降伏調印式や戦犯裁判で屈辱を味わうよりは、ひと思いに自決してしまった方が、山下個人としては、はるかに楽であったろう。しかし、司令官として戦いを収め、一人でも多くの部下を無事に帰国させることを、山下は自らの最後の使命と考えたのである。

そんな山下の人柄にリール弁護士は魅せられてしまった。「私が知る限り、山下を知って、個人的に彼にひきつけられなかったアメリカ兵は一人もない」
山下の法廷への出入りの警護を受け持っていたケンワーシー 少佐も、リールに対して「法廷がどのようなことを言おうとも、私は、いつも彼を偉いやつ----本当の紳士だと思っているということを山下大将に告げてもらいたい」と頼んだという。
山下はその人格で、祖国の名誉を護ったと言える。

■残した言葉
処刑にあたって、山下所軍が日本の新聞に寄せた声明文は以下の通り。

「余は今日告訴第一日と同様安らかな気持ちである。余は余に対して加へられた非難がすべて事実無根であることを神かけて誓ふ。また裁判そのものに関しては敵国将官たる余に対して良心的にして高潔なる錚々たる米軍士官及び名士方が弁護人として協力して下さったことについて米国に潔甚の謝意を表したいと考えてゐる。」

なお、下記アドレスで教戒師の森田正覚氏が、処刑実行40分前に、将軍の言葉を記録したものが読める。

http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/46765784.html


本文の作成にあたっては「国際派日本人養成講座: 山下奉文、 使命に殉じた将軍」を参考にさせて頂きました。



写真は降伏するイギリス軍、山下大将、下は降伏後米国憲兵と撮ったもの、忘れてはならない土佐の偉人、土讃線の電車。