チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

介護ロンブステイ1年8ヶ月

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介護ロンブステイ1年8ヶ月

■身だしなみに気を使おう
家に女主人がいないものだから、先任女中のブアが何かと家の中のことを取り仕切る。電気代や電話代は彼女が支払いに行く。時には安くていいものがあったからママサンに、と1枚20バーツのTシャツや短パンを買ってくる。もちろん代金は私が立て替えておきましたから、としっかり請求する。母にはそれほど高価ではなくても、品のいいものを着せてやりたいのであるが、暑い日には2,3回シャワーを浴びさせてもらうし、食事で汚すこともあり、ブアとしては数も大事と思っているのであろう。
兄はタイ東北部、ウドンタニの市場で、母と全く同じシャツを着た乞食のおばあさんに出会ったそうだ。丁度大きいお札しか持ち合わせがなく、近くの店でミネラルウォーターを買って小銭を作り、おばあさんを探したがもういなかったとのこと。確かに哀れさを感じさせるようなシャツである。

余り人のことは言えない。自分の持っているTシャツの多くはウズベクで着ていたものだ。それもドラゴンボート協会から貰ったものが中心。「2005年東京大会記念」などとプリントされている。先日、プノンペンでJICAのM夫妻にお目にかかったが、自分の服装がウズベクにいた時と全く同じだったのでお二人ともビックリされたたことだろう。モノモチがいいというか、ずぼらというか・・・チェンライに来てからTシャツの数が増えたが、これはブアが紙パンツやら洗剤の景品で貰ってきたTシャツだ。
100%コットンだからテニスで汗をかいても着心地はいい。でもデザインがもうひとつ、タイ語の宣伝も入っている。いくら清潔なものを身に着けているとはいえ、「何とかならんか」と兄がブランド物のポロシャツをくれるが、なんとなく勿体無くてハレの日以外は着る気になれない。
老化は身だしなみに無頓着になることから始まるという。そうすると自分は20代の頃から老化が始まっていたことになる。
母もおしゃれであったが、今はブアが着せてくれる服を文句も言わずに着ている。自分から見てこりゃ日本人のセンスじゃないな、と思うこともあるが家の中だからまあいいか、などと眺めている。

■プルーム医師にプレゼント
月一度の診察日は母にとってはハレの日であるから、シャワーを浴び、兄が東京から買い求めてきた服に着替える。髪の毛もきれいに梳かしてもらい、かなり品がよくなるのだが本人はそれほど嬉しそうでもない。
診察はいつもと同じ、ちょっと聴診器を当てて、変わりないようですから同じ薬を出しましょう・・・。
この日はブアの指示で、兄が日本から買ってきたチョコレートの箱をプルーム医師にプレゼントした。ブアはこれまでにもお世話になっているのだから、果物を持っていきましょう、などと言っていた。それほど気が進まなかったがブアの依頼が度重なるにつれて、これもタイの文化かと思い、この日初めて医師に御礼の品を渡した次第。
プルーム医師は袋からチョコレートの箱を出すと「オホー」と大層ご機嫌になった。母の差し出す右手を取って握手をしたり、帰り際には親指を上げて「ディー、ディー(結構、結構)」などと愛想を振り撒く。母がそれに応えて親指を上げたものだから、さらにご機嫌になった。チョコレートの箱ひとつでこんなに喜んでくれる医師も珍しいのではないか。

■それでも母らしさは変わらない
母は今月で85歳になった。あのまま日本の病院にいたら、医師の宣告どおり享年83歳ということになっていたであろう。決して医師が悪いというのではなく、日本のシステムではそうならざるを得ないということで誰を恨むわけではない。それよりもチェンライの穏やかな気候の下で、穏やかに暮らせることを有難く思いたい。
来た当初に比べ、母の衰えは確かに進んでいる。介助なしでは歩けなくなったし、声も小さく、聞き取りにくくなった。我々兄弟を「お父さん」と呼ぶこともあるし、食事の介助をしてくれる20歳のオイさんを「お母さんがよくしてくれるんだよ」と我々を振り返って言ったりする。でも、母らしい気持は決して失ってはいない。
母の傍らに横たわって、「お母さん、今までで一番嬉しかったことはなに?」と聞いたことがある。仰向けに寝た母は「初めてこうじをこの手に抱いた時だねえ」と静かに、はっきりと言った。母は女学校を卒業して19歳で父と結婚した。兄が生まれたのは母が20歳のときだ。両腕に抱いた赤ん坊を優しく見守っている若い母の写真を思い出してちょっと胸が熱くなった。