チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ブハラ、ヒバ8

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任国内旅行(ブハラ、ヒバ)その8

シルクロードの中心、ホレズム地方
シルクロードと聞くと、人は夢とロマンをかきたてられる。砂漠を通るラクダの隊商、砂に埋もれた古代の城郭都市、その失われた楼蘭王国から発掘されたコーカシアンの美女、ミイラ化しているがその面影を残し、豪華な衣装は当時の繁栄を物語る・・・・・
飛鳥、天平の昔から、西域と呼ばれる中国の遙かかなたに広がる未知の世界への憧憬は日本人の心を捉えて放さないものだった。正倉院の御物の中には遠く中央アジア、ペルシアから伝わったものが含まれている。その日本人の郷愁は喜多郎シルクロード幻想、敦煌からの想い等の曲に凝縮しているように思う。しかし、これまでシルクロードの紹介は敦煌トルファン、タクマラカンカシュガル、カラホトなど中国に偏っていたのではないか。

今回、ブハラ、ヒバを訪問してみて、中央アジアが栄華を誇り、一時期世界の中心地であったことを知った。マケドニアアレキサンダー大王も古代ホレズム王国の黄金を求めて侵攻したという。大王は羊皮紙に金文字で書かれたゾロアスター教の経典をラクダ3千頭の背に乗せて故国へ送ったと伝えられる。残念なことに金文字の黄金を取り出すために、この経典はすべて焼かれてしまったという。それにしても当時の中央アジアの豊かさを示して余りある話だ。
中国人、ペルシア人、ソグド人、アラビア人、イタリア人など多くの人々が行きかい、ゾロアスター教、仏教、モスレム、ヒンドゥーイズム、スラブ、中華の文明が接触・交流し、あるものは破壊され、あるものは復興し、多くの民族が興亡を繰り返したロマンの地こそ、この中央アジアのホラズム地方である。

ウズベキスタンは遠い国と思っていたが「胡」の字がつくものは中央アジア起源のものが多い。たとえば胡麻(ゴマ)胡瓜(きゅうり)、胡椒、胡坐(あぐら、こちらの民族レストランは座卓式)など。他に「胡散臭い、胡乱」と言う言葉があるかどなたか語源をご存知だろうか。
サマルカンド、ブハラは遠くヨーロッパからも留学生がくる学園都市であった。ソーダ、アルカリ、シュガー、ガーゼ、アニリン、アルコールなど化学用語のいくつかがアラビア、ペルシア起源の単語であることを知っている人は多いだろう。中央アジアと日本を結ぶ糸も案外太いのかもしれない。

13世紀の蒙古軍の徹底的な破壊と略奪は中央アジアの国々に多大の惨禍をもたらした。サマルカンドの市場、住居、モスクは破壊しつくされ、平地になってしまい、チムール大王がサマルカンドを復興したときは別の場所に新たにモスクや宮殿を建てなければならなかった。チンギス汗が破壊した旧サマルカンドは今でも荒涼とした平地になっており、皆殺しにされたという住民の怨霊が今でも残っているような気がする。

その無敵であった蒙古軍を打ち破った古代ホラズム王国の王子がいた。
カラめぐりを一応終えたのだが、運転手が飛ばしに飛ばしたおかげで、3時半にウルゲンチに着いてしまった。バザールをまたぶらつくからいいよ、と言ったのだが、ガイドのジェロール君は、いや5時半までの約束ですから、と律儀に市内の公園とその中にあるウルゲンチ博物館に案内してくれた。日曜の午後というのに公園に全然人影がない。みんな棉摘みに駆り出されているのです、という。博物館も鍵がかけられていた。館員も棉摘みに行っているのだろう。

公園に中世の武人の巨大な立像が立っていた。これもチムール大王か、と聞くとそうではない、ホラズム王国最後の王、スルタン・ムハマンドの長子、ジャラール・アッディーンだという。
ジャラール アッディーンは、父の敗死後、ホラズム王国の本拠地ウルゲンチによっていた。ウルゲンチは、すでに蒙古軍が包囲していた。ジャラール アッディーンは、町を奇跡的に脱出、蒙古軍の厳重な警戒網をくぐり抜け、自領地ガズナに移った。その地で、トルコ諸部族とゴール人からなる6万の軍を編成した後、カーブルの東北にあるパルワーンに侵攻、シギ クトク麾下(きか)の蒙古軍を撃破した。局地戦とはいえ、蒙古軍を破ったのである。しかも、シギ クトクはチンギス ハーンの第5子と称されるほどの武将であった。ジャラール アッディーンの武人としての才能が証明されたのである。

ジャラール アッディーンは、チンギス ハーンに讃えられるほどの勇者ではあったが、組織的抵抗をつくりあげることはできなかった。つまり、一時期、特定の地をかき回すだけの歴史で終わったのである。一方、土地に根づいた民衆の間では、伝説の英雄となった。無敵の蒙古軍に立ち向い、一度は勝利したからである。このジャラール アッディーンの敗死により、150年つづいたホラズム王国は歴史から完全に姿を消す。

タシケントからチムール大王の銅像を作れ、という大統領命令が来ましたが、ウルゲンチではごく小さなチムール像を作り、郷土の英雄ジェラール・アッディーン像を大きく作ったのです、とジェロール君はにやりと笑った。ホレズムこそウズベクの中心という彼の自負が垣間見えた瞬間だった。