チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ウズベキスタン追想

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ウズベキスタン追想

タイ、チェンライの生活に慣れていくにしたがって、ウズベキスタン2年間の想い出も遠くなっていくように感じる。考えてみれば昨年の3月までタシケントで暮していたのだ。

零下20度の耳がちぎれるような冬、スイカの皮が乾燥して捩れていく湿度5%、気温40度の乾いた夏、空よりも蒼いサマルカンドのモスク群、ウルゲンチの廃砦に沈む夕日、ブハラのマドレセの庭の静けさ・・・・

タイにおける国の成り立ちは、1000年ほど前、中国南部に「南詔」という国を作っていたタイ族が、クビライ汗の侵攻等、中国大陸の政治情勢の変化に伴い、13世紀にビルマベトナムラオス、タイに南下してきたことに始まる。タイには旧石器時代の遺跡もあり、ヒトは相当昔から住んでいたのであるが、歴史上、タイ(シャム)が登場するのはやはり13世紀のスコタイ朝の成立を待たなくてはならない。

その点、ウズベキスタンは紀元前からヘロドトスの「歴史」にも登場するし、シルクロードの要衝として知られた古都が各地にある。タイとは「古さ」が違う。学生の時からシルクロードに憧れ、ウズベクの諸都市に想いを馳せていた作家に井上靖氏がいる。彼は50代半ばになってその夢を果たすが、下記のエッセイは彼がまだウズベクに行く前のものだ。

シルクロードへの夢」(井上靖

 少年時代、私はいろいろな夢を持った。本気で満州へ行って馬賊になって、高粱畑に沈む赤い太陽を見たいと思ったこともあれば、北欧の海に沿った小都市に行って、靴屋の職人として名もない一生を送りたいと思ったこともあった。本気で考えたのだから不思議であるが、どちらも特殊な自然への憧憬と、その自然に合致する人生とを志向したのであるから、その点ではなかなか高級でもあり、純粋でもあった。

 そのほかにもいろいろな夢を持ったが、そうした少年時代の夢の中で大人になるまで変色しないで私の心に生き続けて来たのは、中央アジアへの夢である。中央アジアへの夢は少年期というより、青年期に心にはいり込んで来たもので、この夢は満州や北欧よりずっと複雑なものになっている。いつも歴史の背景において、そこの特殊な自然が考えられているからである。時代は変わり、世が変わっても、依然としてそこの自然は、砂漠も、オアシスも、草原も、昔ながらの姿を持っており、変わる方は歴史の方である。そこの自然の中には往時の人間の営みの欠片(かけら)が人骨のように散らばっているのである。

 私は学生時代、どんなにシルクロードを旅したいと思ったであろう。往時東洋から西洋へ絹を運ぶ商人が、キャラバンを組んで通ったところである。駱駝と人の隊列、砂丘、草原、オアシス、砂あらし、幻覚、幻聴、そうしたものは昔も現在も変わらない筈である。時間だけが、歴史だけが、それこそ対象のように砂漠を横切って行ったのである。

 中央アジアで一番行ってみたいところはサマルカンドである。このいかなる記録や旅行記においても、美しいという形容詞を決して忘れられることなく冠せられている砂漠の都邑に立ってみたいという思いは、若い頃も五十になった今も変わりはない。単なる若い日の感傷とのみはいえないようである。この町はあらゆる民族に侵されている。アラブ人、カラキタイ人、回教徒、モンゴル人、ロシア人、いずれもこの都邑を栄えさせたり、惜し気もなく焼き捨てたりした。

 サマルカンドの古い城址に立ったら、何人の脳裏をも、さまざまな民族の栄枯盛衰が、それこそ走馬灯のように廻って来るであろう。一二二二年、長春真人は、山東半島からはるばる当時チンギス・カンの行営の置かれてあったこの地へやってきた。チンギス・カンに求められて、長生の秘法を説くためであった。併し、真人はチンギス・カンに謁して、「長生の方なし、衛生の道あり」と語った。

 こうした長春真人の旅行記である「長春真人西遊記」は、私の好きな旅行記の一つである。
―――城郭は毅然たれども人煙は断絶せり
 こういう記述がある。その頃と同じように現在も半ば砂に埋もった無人の城は、今も沢山なお砂漠の中に眠っていることであろうと思う。(以下略)

チェンライの生活も悪くはないが、こういった美しい文章を読むと「現在も半ば砂に埋もった無人の城が、今も沢山なお砂漠の中に眠っている」ウズベクの古都に再び立ってみたいものだとつくづく思う。人はやはり歴史に惹かれるのであろうか。

画像はサマルカンド