チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

沖縄は捨て石?

2021年、日本で撮った桜

同上、横浜

同上、山桜か

目黒川

同上

同上

 

沖縄は捨て石?

今回は伊勢雅臣さんのブログ、国際派日本人養成講座「先人たちの死闘 ~ 沖縄、特攻、空襲の真実」から沖縄の部分を引用紹介します。

数字で見る沖縄戦の死闘ぶり

 まず沖縄戦ですが、米軍を主体とする連合軍は55万人の兵力を投入し、そのうち戦死者約1万2千人、戦傷者約7万人という米軍史上最悪規模の犠牲者を出していることが、日本陸海軍の頑強な抵抗ぶりをなによりも物語っています。

 ちなみに『史上最大の作戦』と邦題がつけられた映画に描かれたノルマンディー作戦は、連合軍がドーバー海峡を超えて、フランス側に上陸した作戦で、投入兵力も130万人という大規模なものでしたが、連合軍の戦死者は2千人以下、負傷者は約6千人でした。両方の作戦での双方の投入兵力と死傷者数を比べてみると、次のような表にまとめることができます。

 ノルマンディー作戦
  連合軍投入兵力  1,300千人  死傷者  8千人
  ドイツ軍投入兵力   380千人       9千人

 沖縄戦
  連合軍投入兵力    550千人  死傷者 82千人
  日本軍投入兵力    116千人      94千人

 沖縄戦はノルマンディー作戦に比べれば、両軍の投入兵力で数分の一の規模ですが、死傷者数は連合軍、日本軍とも一桁大きいのです。しかも日本軍は5分の1の兵力ながら、ほぼ自軍の9割近い損害を与えています。沖縄戦がいかに真剣勝負だったか分かります。

 対独戦の勝敗を決定づけたノルマンディー上陸作戦に比べれば、沖縄戦は日本領土での最初の戦闘であり、その面積も日本全体の約0.6%です。今後の本土決戦は、その100倍以上の面積と人口を相手にしなければなりません。その沖縄戦で戦死傷者8万7千もの損害を受けていては、本土全体を占領するには百万の犠牲が出る、と米軍が恐れたのも当然でしょう。

 この数字だけ見ても、日本軍がいかに必死に沖縄を守ろうとしたかが窺えます。「日本軍が沖縄を捨て石にした」などというのは、あきらかに沖縄を日本政府から切り離そうという政治的な意図を含んだプロパガンダです。

 沖縄戦での日本軍の戦いぶりを見て、米政府および米軍高官たちは、日本に無条件降伏させようとするルーズベルト大統領の方針がいかに愚かなものかを知り、ポツダム宣言での有条件降伏勧告に切り替えたのです。

出撃した三十輌の米軍戦車のうち、帰ってきたのはわずか八輌であった

 日本軍の戦いぶりを具体的に見ておきましょう。米軍は昭和20(1945)年4月1日に沖縄本島に上陸しました。4月8日から16日間、嘉数(かかず)台での激戦が行われました。嘉数台は沖縄本島の中心部からやや南に下った高台で、そこからは那覇市も含め、南部の平坦な地域が一望できます。

 沖縄本島を制圧するには、このあたりの高台を攻略する必要があり、それを見越して日本軍は陣地を構築していました。米軍もこの嘉数台の占領を目指して続々と部隊を投入し、ここで両軍の戦死傷者10万人とも言われる大激戦が展開されました。米陸軍省が編纂した戦史では両軍の戦いぶりをこう記述しています。


 火炎放射器を装備した自動操縦戦車も加え、全戦車三十輌が、日本軍陣地の主力に強力な攻撃を加えようとこの台地に集結したのである。・・・戦車三輌が進撃の途中、台地付近で地雷にあって擱座(かくざ)した。
 戦車隊が列をつくって進撃しているとき、西原丘陵の陣地から日本軍の四十七ミリ対戦車砲が猛攻を加えてきた。敵弾は十六発が発射されたが、米軍は一発も撃ち返せずに戦車四輌を撃破されてしまった。
・・・とくに村落に入るときが激戦で、村落周辺、あるいはその中に入ってからでさえ、戦車十四輌がやられた。その多くは敷設地雷や四十七ミリ対戦車砲にやられたものだが、なかには、重砲や野砲で擱座させられたものもあり、また日本軍が爆薬箱をもって接近攻撃法をこころみ、爆薬もろとも戦車に体当たりし、自爆をとげるという特攻にやられて撃破された戦車も多かった。
 午後一時三十分、いまや米軍歩兵が来るのぞみはすっかり断たれ、戦車隊は、もとの線まで後退するよう命令をうけた。朝、嘉数高地に出撃した三十輌の米軍戦車のうち、午後もとの位置に帰ってきたのはわずか八輌であった。

 ここで戦っている日本陸軍将兵の姿は、爆薬箱を抱いて突っ込んでくる特攻もありますが、それ以外は地雷や対戦車砲を駆使した正攻法の近代戦です。こういう戦いで、米軍は予想をはるかに超える出血を強いられたのです。

 その一方で、軍属として戦闘に参加した5万7千人近くの県民と、それ以外の一般県民が3万7千余の合計9万余の県民の犠牲が出たことは事実です。

 しかし、日本軍は県民の被害を最小にしようと努力しました。長勇(ちょう・いさむ)参謀長が米軍侵攻の前に県庁に出向いて、島田叡県知事や荒井退造警察部長に「県には北部山岳地帯への住民疎開と6ヶ月分の食料確保をお願いしたい」と依頼しています。こうした軍と県庁の協力で、20万人近くの県民の命が救われています。(引用終わり)

 

「沖縄は捨て石」ではなかった。 プロパガンダに毒され、我々は英霊の真心を踏みにじっているのではないか。