チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

トード・タイへ行く

 

トードタイの朝市

同上

同上

同上

クンサーとツーショット、昔の写真


ヤングソルジャーと書いてあるがどう見てもまだ小学生



トード・タイへ行く

■日較差(日中の気温差)

チェンライの気温はこのところ最低気温14度、最高気温34度前後である。日較差が20度もある。うっかりすると朝晩の冷え込みで風邪をひいてしまう。年を取ると「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」という。そういえばテニス仲間のスイス人、ロバートが風邪をひいて1週間ほどコートに来なかった。気温14度というと自分にとっては極寒である。転びそうになるし、極寒下でのプレー、テニスのせいで世間の義理を欠くことになりかねない。

極寒はタイ人にとっても同じ、バイクにはダウンジャケット着用、左手はポケットに突っ込んで片手運転の人もいる。寒い割にはノーヘルで、代わりにフードを目深に被っている。危ないな、と思うがそれほどバイクが転がっていないところをみると運転技術が高いのかもしれない。

朝10時過ぎからどんどん気温が高くなって15時には33,4度になるのだが、湿度が30%以下であるから気温の割には過ごしやすい。冷房はもちろん扇風機もいらない。

日較差が大きい地方の米や果物は美味しいという。それは稲や果物は光合成でCO2と自ら澱粉(または糖)を作る。夜は光合成ができないので日中に合成した澱粉を消費する。夜間の気温が高いと澱粉の消費量が増える。夜間の気温が低ければ澱粉の消費量は少なくなり、より多くの澱粉が実に蓄えられる。山梨のブドウが甘いのも山間部で日較差が大きく、日当りのいい斜面にブドウ畑が広がっているおかげだろう。

チェンライ県は平均海抜500Mと言われている。それで市内でも日較差が大きいわけだ。さらに標高1000Mの山、ドイチャンはタイ珈琲の名産地で知られている。やはり日当りと日較差のお蔭だろう。

 

■朝靄と共に消える朝市

10年ほど前、泰緬国境に近いホエイモというアカ族の村に「ブランコ祭り」を見に行った。偶然、祭りを取材に来ていたバンコクのテレビクルーと一緒になった。あとで番組のDVDを見る機会があった。「お祭りには日本人も来ていました」といったナレーションが流れる中で餅をモソモソ食べている自分の姿が映っていて恥ずかしい思いをした。

その番組の中で村から一番近い街、トード・タイの朝市が紹介されていた。トード・タイの朝市は朝靄の中で始まり、朝靄の消える午前9時頃には店も人も姿を消す、とあった。朝市には国民党の流れの中国人やアカ族、ラフ族、モン族などいろいろな人々が集まる。豆腐を買うと「コップクンカー」の代わりに「謝、謝」と言われることもある。素朴かつエキゾチックな市場である。

その後、トード・タイには何度も行っている。何度も友人を案内している。みな、朝市散策を喜んでくれた。朝市で買い求めた油条(揚げパン)、豆乳、ゴマ餅、饅頭をGHのテーブルに並べた朝食も評判がいい。油条2B、饅頭5B、豆乳15Bと値段を数え上げ、こんなに安くてこんなに豪華な朝食は初めてだ、と感動した友人もいる。

トード・タイは海抜約1000Mの山間の街だ。チェンライ市内に比べ、さらに日較差は激しい。少数山岳民族のおばさんが1メートル四方の茣蓙の上に菜っ葉やキノコを売っている。もちろんもっと大きな屋台の店もあるが、いずれにしても9時過ぎには消えてしまう。ここの野菜は柔らかくて新鮮で甘みがある。何時もあるとは限らないが、春菊があったときは嬉しい。ポリ袋にぎっしり詰めて20B、おすそ分け用に4つは買う。

 

■クンサー旧キャンプ

朝市だけで字数は埋まるが、今回は久しぶりにトード・タイにあるクンサーの旧キャンプを訪れた。時折、旧キャンプの訪問記がネットにアップされているが、クンサーって何者?という人が少なくない。ラフ族の春節祭りで出会った英国人教授もクンサーのことは何も知らなかった。阿片をめぐるゴールデントライアングルの抗争といえばクンサー抜きには語れない。

クンサーは泰緬国境に覇を唱えたシャン族解放軍の指導者だった。米国は始め、彼らを訓練し、ゴールデントライアングルの共産軍と戦わせた。ところがベトナム戦争が終わるとタイ軍と共にトード・タイに立て籠るクンサーを攻める。一説には阿片利権をクンサーが米国に渡すことを拒否したからという。米国は麻薬王クンサーを200万ドルの懸賞金をかけて国際手配した。協力者を犯罪者に仕立て上げる。クンサーとビン・ラディンには通じるところがある。クンサーは2007年に亡命先のミャンマーで73歳の生涯を実業家として閉じた。

一時はシャン邦共和国の大統領だった。共和国が存続したら毛沢東ホーチミンと同じく民衆に崇められていたはずだ。クンサーゆかりの旧キャンプには10年前と同じく訪問者は誰もいなかった。