柱の周りを囲む村人
ラフ族の春節祭り
■タイの少数民族
タイは陸続きの国であるから歴史的に多くの民族が流入してきた。約6600万のタイ国民は、民族的には、タイ族が約85%、中華系が10%となっている。他にはモーン・クメール系、マレー系、ラオス系、インド系が暮らしており、山岳部にはそれぞれの文化や言語をもった少数民族が暮らしている。山岳民族は人口の1.5%、約100万人と言われている。山岳民族にはカレン族、モン族、アカ族、ラフ族、リス族、ミャオ族など、その多くは北タイの山地に住んでいる。そのうちラフ族は中国と同じく春節、旧正月を祝う習慣がある。このたび、日本人会のHさんのお招きでラフ族の新年祭りに参加した。
ラフ族は中国、ミャンマー、ラオス、タイに居住する少数山岳民族で雲南省に45万、ミャンマーに15万、タイに10万いると推定されている。もともとはアカ族と同じくチベットが起源のようだ。アカ語とラフ語は共通点が多く、意思疎通は可能とのこと、アカ族とラフ族が同じ村に住んでいることも珍しくない。ラフ族はタイ語でムソーと呼ばれる。ムソーとは虎を狩る人という意味だそうだ。アカ族と同じく狩猟焼き畑移動農民である。焼き畑は2,3年すると土壌が瘦せて使えなくなる。そうなると新しい土地を求めて移動する。尾根から尾根への移住を繰り返しているうちにいつの間にかタイ国内に入り込んでいたというわけだ。タイの先住民族と書いているネットもあるが、実際にタイに移り住んできたのはせいぜい100年前くらいらしい。
■ラフ村で暮らすHさん
Hさんはチェンライの空港から30分ほどコック川を遡ったところに位置するラフ族の村に住んでいる。奥さんは明るく働き者のラフ女性だ。Hさんと自分は日本人会を通じて10年以上の付き合いだ。Hさんは「こんなところに日本人」といった日本のテレビ番組に出演したことがある。バンコクに到着したリポーターがHさんの住むチェンライのジャトロ村を知らないか、と街の人に聞く。知っているわけはない。それでチェンライまで来てどうしたら村にたどり着けるかと訊く。怪しげなお爺さんが「この村は僻地だ」と言って象で行くことを勧める。それでリポーターは象に跨ってHさん宅を訪れる。空港からH邸まで舗装道路が続いているのに、だ。北タイの山奥でラフ族と暮らしながら農作業に励む日本人、という設定だった。自分はその脚色に呆れたがHさんはテレビの「ツクリ」を承知で楽しく出演したそうだ。
彼の村の春節の祭りには何度か参加させて頂き、丸餅などをご馳走になったものだ。またチェンライ全域のラフ族の合同新年祭りが大々的に、全員民族衣装で開催されてことがあり、この時もHさんの案内で参加した。プミポン前国王の時代には王室から少数山岳民族を援助する資金が少なからず投ぜられていた。でも現ワチラロンコン国王が援助予算を大幅カットしたため、少数山岳民族の大規模な祭典はさっぱり開催されなくなった。
■弟さんの村で
今回の祭りはHさんの奥さんの弟さんの住むバーン・ナーレンナイ村で開催された。この村はラフ族の村としては大きく約100戸の家があるという。住民が多ければそれだけ踊りの輪も広がる。
村の広場の中央には高さ5Mほどの竹柱が4本据えられて、その柱に色とりどりのリボンがはためいていた。関係者の演説セレモニーが終わって、陽も暮れなずむころ、胴長の太鼓と銅鑼の音に合わせて踊りが始まる。太鼓がリード役になって時計と反対周りでステップを踏む。日本の盆踊りを思わせる。4種類ほどのステップがあるそうだ。太鼓のリズムが時折変わり、ステップもそれに応じて即座に変わる。ラフの民族衣装を着ている人は3分の1くらいだろうか。アカ族の村と同じく、若い女性は少ない。若い人は学校や仕事で村を離れてしまう。子供、年寄り、おじさん、おばさんが中心だ。
外国人は我々日本人だけかと思ったが、ファランが一人いて我々のグループに合流した。英国人で大学の英語教師、、教え子のラフの女の子が3,4人いた。彼女たちも我々と一緒にビールを飲んでくれた。20Bずつチップでも、と一瞬考えたのは、若い女性を見る機会と場所に乏しいせいだろう。
男女が2列になってお互い逆回転で踊る。これは万葉集にもある歌垣ではないか。歌垣の風習は、日本の他に、中国南部からベトナム、インドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。歌垣の習俗は、特に山岳焼畑地帯で顕著であり、もとは山岳地帯の焼畑耕作民の文化だったと考えられている。歌垣、ラフの踊り、盆踊りと話は広がる。チェンライの邦人だって偶には高尚な話をするのです。