祠堂か
完全な像はほとんどない
壁に残った爆撃のあと
祠堂の中にあった米軍の不発弾、火薬はない
柱の穴に映った祠堂
チャンパ文字、解読が進んでいる
ミーソン遺跡
■ベトナム旅行7日目
ミーソン遺跡は午前6時から開く。この時間に合わせて夜明け前の5時半にバンが迎えに来た。ミーソン遺跡は20世紀初頭にフランス人に発見されたチャンパ王国の聖なる遺跡で1999年にユネスコの世界文化遺産に登録された。チャンパ王国は西暦192年に後漢から独立し、17世紀に阮朝の属国となり、阮朝に1832年に滅ぼされるまでベトナム中部に存在した王国である。
日本とチャンパ王国の関わりといえば、遣唐使、平群広成が8世紀に漂流した崑崙国は、広成を救助した唐の朝廷が日本に送った手紙の内容から、チャンパ王国と考証されている。チャンパは中国とイスラムを結ぶ交易国家であり、正倉院に所蔵されている香木蘭奢待は、9世紀頃チャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、徳川家康がチャンパ王に宛てた沈香を求める信書も残っている。17世紀初頭には日本から71隻の御朱印船が来航している。
チャンパ王国は1282年から1283年にかけて元のクビライが派遣したモンゴル軍と戦っている.弘安の役(1281年)の直後である。元は地続きの安南国が協力を拒否したため、日本遠征と同様に洋上艦隊による海路からの侵攻という形でチャンパ王国を攻めた。元軍は当初、順調に占領地を増やしていったが補給不足に悩み、次第に撤退を余儀なくされる。そして新たに送られた援軍の艦隊が暴風雨によって壊滅したことによりモンゴル帝国のチャンパ侵攻は失敗に終わることとなった。チャンパ王国にも神風が吹いたということか。
メール人が建てたカンボジアのアンコール朝は、世界遺産のアンコールワットでお馴染みだ。チャンパ王国は1177年にそのアンコールに攻め込み、アンコールワットを一時占領している。チャンパはアジアの大国だったのだ。
■7名のガイド付きツアー
7時前に遺跡入り口に到着した。ここで15万ドン(約900円)の入場券を買う。我がツアーはフランス、ポルトガル、シンガポールの新婚カップル3組と自分の7人、30過ぎのガイド付き、遺跡群があるところまで電動車で行く。
ミーソンには、レンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っている。建造物は、グプタ様式や先アンコール期の影響の残る寺院や祠堂である。建造物はドームを含んでいるが、セメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、当時の技術力の高さを物語っている。
残念ながらベトコン掃討のため、米国のB52 が徹底的な爆撃を行ったため、大半の遺跡が破壊された。だから今残っている遺跡も完全なものはないに等しく壁には銃弾痕もあった。遺跡外壁の彫刻も形が判別できるものは少なく、これが象ですと言われて、ああ、そう言われれば、と思う程度。米国の爆撃がなければアンコールワットに匹敵するような寺院遺跡となっていたに違いない。
自分以外はカップルだから、みな手を繋いだり、肩を抱いたりしながら遺跡を回る。ガイドはカップルのスマホで写真撮影のサービスに余念がない。アンタもどう、スマホは?と言われたがスマホはホテルに置いてきた。スマホを持っていないと聞いてみんな驚いていたがそんなに驚くことなのか。
ポルトガルがずっとイチャイチャしていて、見学の合間にキスなどしている。遺跡をバックにファランの抱擁、結構絵になるじゃん、と写真を撮ろうとしたがばからしいのでやめた。
■大部分はまだ埋もれている
各国の援助で遺跡の修復が継続されている。古いレンガには苔が生えないが近年のレンガには苔が生えるという違いがあるらしい。アンコールワットの修復作業で、日本は遺跡と同じ色のレンガを焼くところから始めたが、国によってはセメントで遺跡を修復したという。ミーソン遺跡のある祠堂はほぼ原型に近いと思われたが、修復に使用された煉瓦は新品と見ただけでわかる。ほぼ新築で風情がない。
ベトナム戦争で遺跡は被害を受けたが、その前のフランス植民地時代にミーソン遺跡は盗掘されて多くの美術品が失われたという。ダナンのチャム彫刻博物館の収蔵品だけでもすごいと思ったのにどれだけの美術品がフランスに持ち出されたのだろうか。ガイドに国宝級のものはパリにあるんじゃないの、と聞いたらスマホで黄金の神像を見せてくれた。これはフランスにあるんだよ。ベトナム政府は返還交渉していないの? ガイドは俯いて首を振った。
ミーソン遺跡はほんの一部だけが発掘されただけでこの渓谷にはまだまだ多くの遺跡が埋もれているという。ミーソン以外にもヒンドゥー、クメール遺跡が国内に点在しているそうだ。本格的な発掘調査が始まったら、アンコールワット並みの大発見があるかもしれない。(続く)