世界遺産、ホイアン
■ホイアンと日本
ホイアンは16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し、国際貿易港として繁栄した。17世紀初頭には江戸幕府の朱印状による朱印船がホイアンに71隻入港したという。当時1000人は住んでいたという日本人街もあり、その名残の「日本橋」がホイアンの顔となっている。鎖国でベトナムとの貿易は途絶えたが、19世紀初めまでホイアンはベトナムの中心都市だったらしい。
ホイアンはベトナム戦争で爆撃を受けなかったので古い街並みが残っており、その街並みが世界文化遺産となっている。古い街並みといっても1771年に阮朝に反乱したタイソンの乱により街は全焼、従って現在残る街並みは1800年代以降に再建されたものという。ホイアンは街並み保存条例を制定し、18世紀の佇まいを残すよう官民挙げて取り組んでいる。このプロジェクトには日本の文化庁、JICA等の多大な協力があった。
ダナンとフエはベトナム戦争のころから知っていたが、友人に聞くまでホイアンの名は全然知らなかった。爆撃もされないさびれた街だったのが幸いして、ホイアンは今の繁栄を迎えた、ということらしい。でも3世紀から14世紀に隆盛を極めたチャンパ王国の遺跡、ミーソン遺跡が近くにある。この遺跡も世界文化遺産だ。街並みはどうでもいいけれど遺跡はぜひ行ってみたい。
■ベトナム5、6日目
さてベトナム5日目はフエからダナンを経由してホイアンに着いた。バス停からバイタクでホテルへ、雨が上がっていたのでチェックインを済ませて早速、自転車で観光の中心、旧市街へ向かう。宿から2キロほどの距離だ。ホイアンはレンタバイクをほとんど見かけない。郊外の見どころは40キロほど離れたミーソン遺跡しかないのでバイクの有用性は低い。また旧市街は狭くてバイクは乗り入れ禁止だ。旧市街は路地に近い狭い道に観光客がごった返しているので、自転車も降りて歩くことになる。トゥボン河沿いのバクダン通りは河を臨む瀟洒なレストラン、カフェが軒を連ねている。バクダン通りは爆弾通りかと思っていたが、正式名は「Back Dang Street 」で爆弾とは全く関係ないことを知った。
繁栄を極めたホイアンであったがトゥボン河に川上から運ばれた土砂が堆積し、大型船が入港できなくなって19世紀に貿易港の地位をダナンに譲った。ひっそりと過疎化が進む田舎町は、古い街並みが残る海辺の古都、観光の街へ生まれ変わった。野球の部活で全員ランニングをしている、顧問の笛がピーッとなると全員回れ右をして走り出す。ビリが先頭となるわけだ。高知の四万十川はダムもなく開発の遅れた川と言われていたが、今やダムもなく源流から河口まで自然が残る貴重な川と脚光を浴びている。ホイアンは四万十川と同じく「遅れていた」、そのこと自体がウリとなったわけだ。
ベトナム6日目、この日は前日から晴れることがわかっていたので、ミーソン遺跡のツアーに行くつもりでいた。しかし8時半に迎えに来るはずの車が来ない。ホテルの奥さんに確かめたが、どうやら自分の意思が奥さんに通じていなかったようだ。ホテルはプール付きではあるがホームステイに近い小さな宿で、奥さんの英語はいまいち、自分のタイ語交じりの英語もよくなかった。それにミーソンは「MY SON」と表記されており、奥さんが、マイサンがどうとかいうので息子さんが案内してくれるのかなどと誤解していた。要するに自分のミスである。結局ミーソン遺跡見学は翌日午前5時半にツアー会社が迎えに来ることになった。ホイアンには3泊するので時間的余裕はある。
■旧市街に1日4回
ホイアンの見どころ、旧市街はトゥボン河とチャンフー通りに囲まれた600m四方ほどの小さいエリアである。そこにファラン、韓国人、中国人観光客が詰めかけている。邦人も少なくない。紅葉の嵐山もこんな感じではないか。人ばかりでなく口警笛を鳴らしながらリキシャが通る。街並は高い建物はなくほぼ黄色の壁で統一されていて、それなりの雰囲気が感じられる。カフェ、レストラン、洋品店、土産物店が軒を連ねるが、なにか品の良さを感じる。
ホアヒンの顔で2万ドン札にも印刷されている「日本橋」は残念ながらリノベーション中で、運河を跨ぐ大きな倉庫内でバラバラになっていた。それを知らず、手前の何の変哲もない橋をしょぼい橋だなと思いながらも日本橋と思って何枚も写真を撮ってしまった。この日は都合4回、旧市街を往復した。やはりランタンに彩られる夜の街は一見の価値がある。タイと違ってお祭りはなかったがロイクラトンの満月をカメラに収めた。(続く)