チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

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武蔵小山商店街

渋谷ハチ公前

渋谷駅前の交差点、写真を撮る外人が多かった

チェンライ空港の蘭

同上

同上、やはり蘭はきれい

 

 

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■健康の不安一掃

日本にいた期間は半月ほどだったがやるべきことが多々あった。でもほぼすべての宿題をクリアしたので充実した日々だったと言える。住所のある品川区は23区の中でも裕福な区に属し、健康診断、高齢者歯科検診が無料で受けられる。そういえば2020年に新型コロナウイルス感染症緊急経済対策として国から特別定額給付金として国民に一律、10万円の給付があった。この10万円とは別に品川区民には3万円給付された。国からの10万円でラップトップのパソコンを買ったが、3万円は何に使ったのか思い出せない。

とにかく、健診では注意項目はなかったし、大腸内視鏡検査では良性ではあったがポリプを2つ切除してもらった。これでしばらくは健康に不安なく暮らせる。歯科検診ではタイで受けたブリッジ治療の不手際を指摘され再手術を受けた。ブリッジ治療とは歯が欠損した場合、両隣の歯に支台を設けて義歯を装着する治療方法である。自分の場合、前歯の支台の作り方が悪く、食べ滓が溜まる構造になっていたそうだ。当然、支台の健康な歯が蝕まれる。歯医者さんは「ほら、もう虫歯になりかけている。この下に神経があってすごく痛くなるんだよ」と言って歯を削り始めた。安価なステンレス鋼で固めてあったため、ドリルを数本取り換えながら苦労の末、ブリッジ再構築となった。どういうわけか治療費は無料だった。

帰国した目的の一つはタイで掛かった歯科治療費の国保還付申請があったが、初めから日本で治療を受けていたら、時間、金額ともセーブできたかもしれない。タイの医療水準は日本と変わりません、と言われる。でも医師の技量はバラツキがあるから、日本と同等の技量を持つ医師に当たれば、という注釈がいるだろう。今の時期、知人2人が歯科治療を目的として一時帰国している。

 

■外国人

2020年3月から1年8か月ほどコロナ騒ぎの日本に滞在した。その後、タイで2年弱過ごし、この度コロナ終了の日本に一時帰国した。何が変わったかというと人出である。どこもかしこも人、人、人。外人も多い。特に銀座に出た時は小型スーツケースを引きずるカップルはみな中国語を話していたし、銀座7丁目、銀座通りのライオン前あたりには大型バスからゾロゾロと中国人が下りてきた。以前は銀座通りを挟んで大声で怒鳴りあっていたそうだが、それほど多くの中国人はまだ押し寄せていないようだった。

最寄り駅、武蔵小山には東京で一番長い800mのアーケード商店街がある。決して観光名所でもないのにガイドに引率された外国人の一団がいた。観光客ばかりではない。下校時刻に家の近くを歩くと、黒人の中学生やヒジャーブを被った小学生と行き交う。それも日本人の学友とふざけあって楽しそうだ。地元だから皆、我が母校の後輩になる。自分が小中学生だった数十年前には考えられない光景だ。

東京はどこに住んでいるの?と聞かれたとき見栄を張って、五反田の近くです、などと答えたことがある。五反田には池田山という美智子上皇后陛下のご実家、正田邸があった高級住宅地がある。今、正田邸跡地は「ねむの木の庭」という小公園になっている。その反面、駅から歩いて2,3分の目黒川のあたりには特飲街があった。浦山桐郎監督、河原崎長一郎主演の日活映画「私が捨てた女」の捨てられた女、小林トシエが身を沈めた場所だ。昔の話をすればきりがないのだが、零細工業地帯だった武蔵小山にも外国人が闊歩するとはまさに隔世の念を禁じえない。

 

■市場で帰宅を実感

タイに戻る9月末はようやく涼しくなったが、それまで東京はチェンライより気温が高かった。7,8月は冗談ではなく、東京からチェンライに避暑に来てほしいほどの暑さだった。10月に入り、漸く日本列島も秋の気配が濃厚となった。チェンライの10月の平均気温は25度、最高気温30度、最低気温21度と過ごしやすい。チェンライの空港に着いた時、税関の出口あたりが蘭の花で埋め尽くされていた。観光地と同じく造花かな、と触ってみたら紛れもない生花だった。ホンモノの豪華な蘭が「お帰りなさい」と優しく迎えてくれたようでちょっと嬉しかった。

到着した翌日、近くのランムアン市場に豆腐を買いに行った。店先で5歳くらいの幼女が「アウ・アライ・カー(何に致しましょう)」と微笑みかけた。その時、ああ、チェンライに戻ったな、という感慨にとらわれた。日本だったらこのくらいの年の子はみんな幼稚園に行っていて店先になんか座っていない。小さい頃から両親のお手伝い、日本も昔はそうだったに違いないのだが。