デクノボートヨバレ
■気楽な生活
8月に入って1週間ほどテニスができなかった。朝起きると空が真っ暗で雨が降っている。運動場の方角にも黒い雲が広がっている。ああ、行ってもコートが濡れている、今日も休みだ。以前のブログにも8月に雨が降り続き、テニスができなかった、と書いているから特別な出来事ではなく、雨季特有の季節的現象と分かる。
テニスで生計を立てているわけでもないし、運動がそれほど好きかというと、小学生の時から決して体育は得意ではなかった。野球、サッカー、バレーボールなどの団体競技は、仲間の足手まといとなるので楽しい思い出はない。球技だけではなく、学生生活、社会生活、結婚生活、それから現在のチェンライ生活も、皆さんの足手まといにならぬよう、ご迷惑をおかけしないようという同調圧力の中で過ごしてきたように思う。
結果として、「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニ」自分はなった、と思う。人にあてにされないということは気楽である。金があれば貸してくれという人が現れ、能力があれば知恵を貸せ、という人が現れる。世に交われば意に染まぬこともあろう。四住期でいう学生期、家住期は人との交わりの中で生きていたから自分を殺さねばならないことが多々あった。社会人の頃は月給には「ガマン代」が含まれているから、と自分にいい聞かせていたものだ。
でも今は「林住期」から死を迎える準備をする「遊行期」にかかる年齢だ。自由気ままに生きられ、勉強や仕事から解放され、人との付き合いも希薄である。世の中から忘れ去られている。テニスが仕事、などと書いたことがあるが、別にコートに行かなくても誰も困らない。こんなに気楽な生活が自分の人生にあるとは思ってもみなかった。みなさん、長生きはするもんですよ。
■財界総理の呟き
昭和31年から43年まで経団連の会長を務め、「財界総理」と称された石坂泰三氏は、朝、玄関で靴を履いた後、腰を下ろし、「つらい」と一言呟いたそうだ。娘さんが手記に残している。彼は80歳を過ぎても経団連会長を務めていた。朝になれば迎えの車が来て、否応なく自分の思い通りにはならない1日が始まる。〇時からxx会議で挨拶、〇時にはxx国の経済大臣との面会、〇時から同友会との会合、〇時には経済閣僚を交えた諮問委員会、〇時には、〇時には・・・・。
人から頼まれ、みんなのため、国のため、という使命感がなければ、こんな激務をこなすことはできない。それでも「つらい」と呟いた石坂氏の心中を思うと心が痛む。能力、体力のある人にはどんどん働いてもらえばいいんだよ、という人もいるだろう。確かに人間社会、2割の良く働く人、6割の普通に働く人、2割の前記8割の足を引っ張る人で成り立っているというから、トップ2割の中枢であるリーダーには本当に頑張ってもらいたい。
ただ、そういう立派な人の足を引っ張るようなことはしたくないし、いいたくない。これはお国のためはもちろん、世のため、人のために生きていない人間の最低限のモラルだと思う。
■明治の男
石坂泰三氏は明治19年の生まれ、尋常小学校の頃はランプや行燈の下で漢籍の素読をさせられたという。一高、東大法卒、逓信省に入省するがほどなく退官して第一生命に入社、戦後は東芝の再建に注力し社長となる。協会長として1970年の大阪万博を成功に導き、その5年後1975年に88歳で死去。
ドイツ出張の折にはパーティでシラーだかゲーテの詩を原語で諳んじて、居並ぶドイツ財界人を吃驚させたという。なんか明治生まれの日本人は違うな、という感じだが、いくつかの名言を残している。
「人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。」
「人生のコースには人それぞれのペースというものがある。自分のペースに合わせて、息切れず、疲れすぎをせず、ゆうゆうと歩を進めて、とにかくその行き着くところまで、立派に行き着けばよろしいのだ。」
自分の道を信じて進めば納得のいく人生が得られるという。何とか行き着くところまで辿り着いているだろうか。
「これから幹部になろうという者は、相手の言葉だけでなく、文化、歴史、政治、経済といったものをよく勉強しなくちゃいかん。もちろん、その前に自分の国のこともよく知っていなくては。」
今の政治家によく吟味してほしい言葉だと思う。どうして戦争が起こったのか、どうして負けたのか、それさえ知らない政治家、官僚がいる。
「 満足しているものが一番の金持ちだ。」
石坂名言集の中でこれが一番気に入っています。