東照宮表参道
仁王像
陽明門、人が絶えない
家康公墓所、鋳抜門 扉以外の柱、梁などが一つの鋳型で造られている。
神橋、日光社寺の原点、恋人の聖地とのこと
自分の時間
■林住期?ムリムリ
フランス映画「男と女、人生最良の日々」の感想文を書いて、「今が自分にとって人生最良の日々ではないか」と締めくくったけれども半分以上本気である。
古代インドでは四住期と言って、人生の時期を四つに区分している。これは何度か書いたことがあるが繰り返してみる。
「学生期」 0から24歳 文字通り、生まれてから一人前になるまでの勉強し成長する時期。
「家住期」 25歳から49歳 家に住む。結婚して家庭を作り、社会や家族のために生きる時期。
「林住期」 50歳から75歳 林に一人で住む。家族や社会から離れて人里離れたところに暮らして、本来やりたかったことをする。
「遊行期」 75歳から90歳 この世の一切の執着を捨てて、死ぬ準備に入る。
五木寛之氏によると林住期が人生の黄金時代なのだそうだ。今の若い人に言わせれば50代なんて一番子供に手がかかる時代だし、会社でも責任ある仕事に追いまくられている。社会の第一線だ。オレ、これから一人で暮らすから、と言ってもカミさんのお許しが出ないかもしれない。
65歳の定年後に林住期を迎えたとしても暮らしていくには先立つものが必要だ。民間調査機関ディップ総合研究所の調査によると、これから定年を迎える55歳~64歳の人に定年後に働きたいと思うか尋ねたところ、57.8%が定年後も働きたいと回答したという。働く目的は収入が第一だが、「働くことが好き」、「健康維持」という理由も目立つ。
■責任、義務を逃れて
友人に「お前も働け」と言われてビックリした。お国がもう働かなくていいんだよ、と言ってくれているのにどうして? それに働くのはイヤ。
日本人男性の健康年齢を過ぎているし、残されている時間は限られている。可処分所得は口に糊する程であるが、可処分時間は豊富、この満足感を60歳以降持ち続けている。これでも若い時は真面目に働いていたんだからもう勘弁してよ。
ニーチェを持ち出すのは気が引けるが、彼はとにかく「自分の時間を確保せよ」と言っている。「あらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人に分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のために持っていないものは奴隷であるから。そのほかの点では、例え彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。」(人間的、あまりにも人間的)
考えてみると自分もいろいろな役割を好むと好まざるにかかわらず、演じてきた。演じるというより完全に役に嵌まり込んでいたように思う。父親としての役割、夫としての役割、息子としての役割、営業マンとしての役割、シンクタンクの研究員やら外人教師の役割など・・・、けいこ不足を幕は待たない、といった恋のからくり、夢芝居を演じたこともないとは言わない。奴隷などとシニカルな考え方にはくみしないが、笑ったり、怒ったり、嘆いたり、悩んだり、と喜怒哀楽さまざまの毎日を送っていた。一日の三分の二はその時々の感情に流される時間であった。忙しさに紛れて、その感情の源をじっくり考える時間に乏しかったかもしれない。
今は働かなくてもタツキの道は立っているし、子供たちは独立、妻は去り、母は一昨年大往生、数々のしがらみが自分から消えて去っている。夜更かし、朝寝は誰にも邪魔されない。「起きてこないから死んでるんじゃないかと思った」などと起こしに来る人もいない。気楽なものだ。「きょういく(今日行くところがある)、きょうよう(今日用がある)」のない生活、今、自分は自由人と言っていいのではないか。
■今が一番シャーワセ
ヴィクトル・ユーゴーは正確には「人生最良の日々はまだ来ていない日々である」と言っている。今はともかく未来を信ぜよか。タイの坊さんにタンブンを積めば来世はよくなるから、と言われている感じがしないでもない。
朝から一杯やって1日中、ほろ酔いの生活も悪くないかもしれない。飲みすぎはよくないわ、と言ってくれる人はいないから、放哉や山頭火の様にアル中になってしまう恐れはある。
兄は、精神的に繊細な人がアル中になる傾向がある、だからお前は大丈夫だ、というが、放哉や山頭火ほど量が飲めないと思うし、酒で忘れたいほどの鬱屈もない。
これから来る我が「人生最良の日々」はすべての記憶が無くなる恍惚の日々かもしれない。それもそれで悪くはないと思う。世のしがらみから離れ、本や映画で時間を過ごし、時にはぼんやりと考えごとにふける。そして「今が一番シャーワセ」と呟いてみる。あの百歳姉妹も最後まで責任と義務を果たしていたなあ、それに引き換え自分は・・・・やはりシャーワセか。