チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

介護ロングステイ 4年4カ月

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介護ロングステイ4年4カ月

■ 四住期
ヒンズー教では、人生を4つにわける「四住期」の思想がある。将来のために学ぶ「学生期」、家族や社会のために働く「家住期」、家を出て森林にすむ「林住期」、死ぬ準備のため真理を一人求め歩く「遊行期」(乞食期ともいう)の四つである。作家の五木寛之は著書の中で学生期は25歳まで、家住期を50歳まで、林住期を75歳まで、その後を遊行期と区分けして、50歳を明確な区切りとして、その後の25年間を人生の黄金期として生きるべきだと説いている。50歳になったら仕事から離れ、人生を生活のためだけでなく生きること、自分が本来なすべきことは何か、自分が本当にやりたいこととは何かということを大切にして、他人や組織のためでなく、ただ残された時間を自分のために過ごすことを勧めるのである。(『林住期』幻冬舎刊)

この本は団塊の世代が定年を迎えるころ書かれた迎合本という気がしているが、自分としては枯れていると言いながらも脂ぎっている林住期よりも76歳以降の遊行期はどうあるべきかというほうに興味がある。

母が、通帳がない、ハンコがないと大騒ぎ、といった認知症の傾向が出てきたのはいわゆる遊行期になってからだ。それから10年余り、母は確実に衰えてきている。歩行はままならないし、心の中で遊行しているのではないかと思うほど、、話す言葉がはっきりしない。自分も遠からず、そういった状況になるのだろうか。何か対策はないものだろうか。それとも、人様の喜捨を当てにして本当に遊行して回ることになるのか。

■25年刻みの昔話
むかしむかし、神さまは人間に二十五年の寿命しかあたえなかった。馬には百年あたえ、犬にも猿にも百年あたえた。ところが馬が神さまに抗議して、「どうも百年も人間のために働かされてはたまりません。そのうち二十五年を人間に呉れてやりたいとおもいますがどうでしょう」と、いった。神さまはそれをゆるした。

〔以下、犬も「百年も吠えつづけていてはやりきれないから」、猿も「百年も人間に見られつづけては退屈でたまりません」と、同様に二十五年を人間にくれてやる、と続く〕

そういうわけでもって、人間たるものは、百年という寿命をもつことになった。ところが、この民話が言うのに、人間が人間である時期は当初のとおり二十五歳しかないということなのである。

つまりわれわれが人間であるのは二十五歳まででしかなく、二十六歳から五十歳までは馬である。
そういわれてまわりを見わたせば、たしかにわれひと共に馬のごとく働いており、そのなりふりを見ているととても人間とはおもえない。

五十一歳から七十五歳までは、犬である。保守的情念が強くなり、若い者のすることが諸事気に入らず咆えちらし、その上自分の領域をまもる性質がつよくなって、すこしでもそれを浸して入ろうとする他人に対して咆えまわっている。

 ところで、七十六歳から百歳までは、こまったことに猿なのである。このハンガリーの民話では、猿は人間に対しては脳なしでただ見られるだけの動物ということになっているから、つまりは恍惚の人ということなのであろう。  (司馬遼太郎 「馬齢と犬齢と猿」)

林住期が犬の時期というのは自分の周りを見ても納得できるところがある。ただ、76歳以上を人に見られるだけの恍惚の人という見方には賛成できない。いくら認知症であっても感情やその人らしさは消えない。他人から見れば恍惚の人かもしれないが、尊厳ある個人であるし、本人もそのように扱われることを望んでいる。

いつか施設に入って、孫のような若者に、「おじいさん、チャンと声をだして歌いましょう、はい、はーるを愛するひーとはー」、などと言われても歌う気になれない。自分だって40年間、真面目に社会で働いてきた人間である。他人に子供扱いされる覚えはない。年をとってもそれくらいの矜持を持っていたい。

■老いに対して

仏教でいう四苦(生、老、病、死)から誰も逃れることはできない。しかし、今の老人は老いを認めず、死と向き合おうとしない。年をとればどこか具合が悪くなるのはごく自然なことであるが、病院に行って適当な病名を付けてもらい、病気であれば治ると信じている。自分はまだ若いと思い、人に若いと言われれば相好を崩して喜ぶ。

母は87歳になる。お母さん、87だよ、年取ったね、でももう少し長生きしてね、と呼びかけると頭を何度か横に振った。2,3年前には、もうすぐ死ぬからね、とか、おかあさん、悲しい、と言っていた。決してそんなことはないのだが、みんなに負担をかけているのではと思っているらしい。
もしそうであったらこちらのほうが悲しくなる。


写真は「スコタイ遺跡公園」