チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

チェンセーン1泊

メコン河 対岸はラオス

中国資本のビルが遠望できる

屋台の肉 

食事中

同上

同上 夕暮れが近い

 

チェンセーン1泊

■バッテリが上がるので

ホンダのシビックとスズキのカリビアン、2台の車がある。テニスコートの往復にはカリビで行く。びっしょり汗をかいてもカリビの背もたれは塩ビ製だから気にならない。シビックは汗染みができるのでは、とバスタオルを運転席にかけたりするが面倒である。ブアさんもどうもシビックに乗るのは恐れ多いと思っているのか、買い物にはカリビを指定する。1月ほど前、シビックでメーホーンソーン方面2泊の旅で800キロほど走ったが、それ以来、ほとんど乗っていない。これではバッテリが上がってしまう。

週5日のテニスを軸にカントのような規則正しい生活を送っている。でも哲学者ではないから決まりきった生活に飽きてくる。少し気分を変えないと。テニスのほかには週2本のブログ原稿作成もやっている。そういえば作家、文豪と言われる人は旅館に逗留して名作を生んでいる。川端康成が「雪国」を書いた越後湯沢湯元の高半の隣にある旅館に泊まったことがある。

三島由紀夫池波正太郎は神田の山の上ホテル、内田百閒、松本清張は東京ステーションホテルを愛した。清張が「点と線」の着想を得たのは東京駅のホームが見下ろせるこのホテルの一室であるという。字を書き連ねるという作業は文豪の小説でもしがないブログでも変わりない。そうだ、ホテルに泊まって原稿を書こう。行先はメコンのほとりチェンセーンに決めた。

 

■文豪缶詰プラン

ホテルに缶詰めになって「先生、原稿はまだですか」と編集者に催促される。売れない小説家なら一度はこういった気分を味わってみたいと思うのではないだろうか。その夢、叶えます、という企画があることを知った。その名も「文豪缶詰プラン」。

昭和の雰囲気を残す本郷の旅館にこもり仕事や執筆などの制作活動をするというもの。斬新なのはその内容で、まず宿泊客は先生と呼ばれる。そして、スタッフ扮する担当編集者がつき、時間になると編集者から「先生! 原稿は進んでますか?」と圧をかけられ、外出をしようものなら止めに入られ、窓を開ければ編集者が窓の下からこちらの様子を見張っているという徹底ぶり。オプションでは「借金取り登場」、「本妻と愛人はちあわせ」などの修羅場が体験できる。更に○○賞の受賞電話を編集者と待つという緊迫した時間を過ごすこともできる。

もともとある出版社が始めた企画であったが、かなりの評判で感染症騒ぎで一時中断していたが、その後も売り出し、即完売の盛況らしい。和室に布団、座卓の部屋、あるジャーナリストが体験宿泊をしてみたが、PCの電源がない、WiFiがうまくつながらないなど昭和の文豪なら経験しない不都合があったようだ。(編集者による電源コードとルータ差し入れで解決したとか。令和の編集者も楽でない)

 

■川のほとりで

チェンセーンの朝食付き通常8千円のところ3千円というホテルを予約した。WiFi は問題なく繋がる。編集者の催促はなかったが原稿を1本書きあげた。この日は日曜だったのでチェンセーン市役所前に広がるメコン遊歩道に行ってみた。雨季であるから濁流滔々として流れ、上流から運ばれてくるごみの量も半端でない。ラオス領を遠く臨むタイ側の遊歩道にはビニールシートに座卓が並び、屋台では魚を焼いたり、野菜を炒めたりしている。夕暮れを前に多くの家族連れやグループが卓を囲んで食事を楽しんでいた。夕陽が遠くラオス領を照らしている。雄大メコン河からの川風が座卓の間を吹き抜けていく。川風と食事というと京都の川床を思い出す。

京都の夏の風物詩ともなっている川床。納涼床ともいい、川の流れがよく見える場所や川の上に一段高い席を設置し、自然の涼を感じながら食事やお茶を楽しむ。例年5~9月になると、「今年もこの時期が来た!」とばかりに川沿いに賑やかな声が響く。エリアによって呼び方が変わり、貴船・高雄では「かわどこ(のうりょうどこ)」、鴨川では「かわゆか(のうりょうゆか)」と呼ばれている。

世が世であれば殿の招きの月見酒、思い出すなあ、お玉が池の千葉道場、ではないが、今の季節、鴨川では鱧の霜造り、鮎の塩焼きなどが出てくるはずだ。同じ川魚ながらプラニンの塩焼きとタイ風春雨、ヤムウンセンを頼んだ。

鴨川の桟敷とメコンの遊歩道、人の運命などわからない。世の中は何か常なる飛鳥川、か。チェンライーチェンセーン、往復200キロ走ったのでバッテリ上がりの心配はひとまず解消、原稿も書けたしこれで満足すべきなのだろう。それに「人生裏街道の枯落葉か」と卑下する必要もないまずまずの人生だ。