チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

夏休みの宿題

こういう田植え風景は少なくなった

田植え後

日本の田んぼとは何か違う

今盛りのラムヤイ竜眼

チェンライの市場

同上

 

 

夏休みの宿題

 

■夏休み真っ盛り

7月も下旬、日本の学校は夏休みに入っている。感染症は過去最高と言われるが、人心は一応の落ち着きを見せ、人流も3年ぶりに解禁された。お盆もあるし、親子で帰省、海、山など家族旅行を計画している家庭も多いだろう。国内はもとより、海外にも足を延ばして日頃できない経験を、という積極的な高校生、大学生も少なくないのではないだろうか。

タイの学制は日本と同じく6・3・3・4制であるが、2学期制をとっていて、5月から新学期(第一学期)が始まる。タイの夏休みは3月から5月にかけて1月半ほど。気温が40度ともなる暑季で、いくらタイの子供でも勉強などできない。新学期、新学年が始まる前だから夏休みの宿題はない。夏休みの宿題がない、これは日本の小中学生にとっては羨ましいことではないだろうか。昔に比べ、夏休みの宿題は少なくなったと言われているが、さあ、休みだ、遊べるぞ、という解放感の前に立ちふさがるのが夏休みの宿題である、という現実は50年前とそれほど変わらないのではないか。

宿題帳の名称は皮肉なことに「夏休みの友」だったと思う。何が「友」なものか。小中学生だった頃の自分は、やらないといけないことはやる、と思う程度の誠実さと小心さを持ち合わせていた。7月21日から朝のラジオ体操が終わると、ちゃぶ台の前に正座して宿題帳やプリントをやり始める。午後も頑張る。そしていつも7月末には宿題の90%を終えていた。これで8月はのんびりできる。残った10%は何かというと算数だった。でもほぼやり終えたという安堵感は子供心にも嬉しかった。

 

■徳政令下る

夏休みの宿題を全くやらないで済んだ年が小学校2年と5年の2回あった。8月に引っ越しをしたからである。親の勤めの都合ではあるが、新しい小学校に行くのだから前の学校で渡された宿題帳などやる義理はない。晴れ晴れとして子供心にも嬉しかった。借金棒引きの徳政令の恩恵に与ったようなものだ。その後、社会人になって、仕事が行き詰まってきた時など、あんな徳政令みたいなことが起こらないものかなあ、と夢想したものだ。

現実それほど甘くはなかったが、夜逃げなど世間に不義理な行為を働くことなく、現在に至っている。それに世の中、思いもよらない幸運が訪れることもある、と夢想できるのであれば、鬱病にかかる心配はないように思う。

日本では夏休みの宿題が親子の悩みであるが、タイに限らず、夏休みの宿題のない国には英、米、露、仏、独、蘭、豪州、カナダ、フィンランドインドネシアなどがある。こうなると宿題が出る日本、中国、韓国などは少数派ということになるらしい。宿題があるから日中韓の子供が、学力が高いとか、発想力が卓越しているということはないと思うし、そう言ったデータもない。

宿題よりも親子で日頃できないことを達成する、家族で知らない世界を経験する、そのほうがちゃぶ台の前でシコシコとドリルや同じ漢字を書き続けるよりもずっと情操の面でも優れているような気がする。ネットでも家族で楽しむ体験的夏休みの過ごし方、といった記事が散見される。

 

■教育とは?に立ち返る

こうしてみると、教育とは学力のように点数で測れるものだけに限られるものではないということに気付く。学校で学ぶものあれば祖父母、両親、近所の人々から学ぶものもある。自然から、異文化から、食物や乗り物、動物、植物、何からでも学ぶことはできる。子供は海綿が水を吸うように目にする。聞く、味わう、あらゆる経験から知識や教訓を学んでいくのだろう。

小学生の夏休み、8月は何していたんだろう、と思う。今、異国の片隅に住まいして、何かやることはあるか、と問われれば、ウーン…と口ごもってしまう。ごろりとベッドに横になり、ぼんやりと来し方、行く末などを考えるが、考えることに疲れてウトウトしてしまう。ああ、小学生の夏休み、8月はこういう感じで日を過ごしていたのでは、と思い当たる。朝のラジオ体操が今のテニスに変わったくらいか。半世紀以上経っても生活は小学生の時と同じで進歩がないのかも。

でも決して後悔の念は起こらない。宿題をしないでいい夏休みが2回もあった。そんなことだって今となっては幸せを呼び起こす記憶である。子供の時から勉強しても役にたつ体験をしても、古希を過ぎれば人生ちょぼちょぼ・・などと呟いてしまう。

明日の命さえ知れない国や国民がいることを思うと、不謹慎ながら今の生活は宿題をやり終えた小学生程度には幸せである。