チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

老人の覚悟(1)

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近くの新市場、ラン・ムアン市場から

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パクチとネギで5B

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エビはキロ240B、高い。

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豚肉売り場、ブロックで買うのが普通

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ミカンとスイカが同時に並ぶ

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おかず屋さん


老人の覚悟(1)


■機能は衰えていく
浦島太郎は東南アジアのどこかの島に流れ着いたのだろう、と書いたことがある。チェンライには、厳密にいえば季節はあるが、日本のように四季の移ろいをしみじみと感じることはない。概ね同じ服装で、年間を通してバナナやスイカを食べている。カレンダーがなかったら、いつ正月が過ぎて、いつ春がきたのかわからない。月日の経つのも夢の内、気が付いてみたら、玉手箱をあけなくても白髪のおじいさん、というわけだ。

今、週に数日のコート通いを続けていると、こちらに移住してきた頃とあまり生活のリズムは変わっていないような気がする。
でもそれなりに馬齢を重ねているわけで、テニスだって昔と違ってあと一歩でボールに追いつけない、というか最初の一歩を踏み出す時に一瞬の遅れがある。しょーがないよ、とは思うがちと悔しい。
まだ自分はいい方かもしれない。友人、知人のメールを見ると、愕然とすることがある。杖をついても出歩けるならいいが、それもままならない友もいる。自分だっていつそうなってもおかしくない。

東京にいるときに図書館で、老後に関する本を何冊か借りた。三浦朱門曽野綾子夫妻は気高く生きる老人の見本である。ご夫妻のここ10年のエッセイ集の内容はほぼ一貫している。老人に対する助言、戒め、励ましであるが、不思議と退屈ではない。曽野さんほど立派な老後を生きられる(生きている)かどうかわからないが、自戒のためにもいくつか引用してみたい。

 

■「戒老録」曽野綾子著より(1)
「老年は、自分で幸福を発見できるかどうかに関して責任がある」
食うや食わずの貧困の中で暮らす人々を、私はたくさん見た。今日、食べるものがない人に撮って、夕飯に一切れのパンにありつくことは、全世界を満たすほどのすばらしい偉大な幸福を手にすることである。しかし、贅沢に馴れた日本の子供にとって、おかずもなくバターもないパン一切れを夕食に与えることは、不満と惨めさの極みになる。日本の年寄りさえも、このからくりの分からない人が増え始めた。豊かになればなる程、不満な年寄りは増えるだろう。
社会が整備されればされる程、社会に不満を抱く人も多くなるだろう。老年の幸福は、この判断ができるかどうかだろう。(引用終り)

子どもの頃、母に「上を見ればきりがない、下を見ればきりがない」と言われた。XXちゃんは買ってもらってるよー、と言うと「よそはよそ、うちはうち」とも言われた。仏教に「小欲知足」という言葉がある。「欲が少なくても満ち足りていることを知っている者は安楽であり幸せである」という意味だ。プミポン前国王もタイ国民に「足るを知る経済」を説き、タイ貧困層の発展に尽くした。「我利私欲」、「大欲非道」の世界ではあるが、残り少ない時間を口を尖がらせ、世を呪って過ごす老後は避けたい。

 

■「戒老録」曽野綾子著より(2)
「年寄りは他人が『してくれること』を期待してはいけない」
昔から、人間の最も基本的な生活態度は自ら自分に必要なものを取ってくることであり、次に弱い者に与えることであった。“体の不自由な老女が、毎夜、道に面した窓の傍らに、あかりを置いて、じっと座っている”という話が、私の記憶の中にある。
それは、そこを通りかかる旅人のためであった。長い道のりを暗闇の中を歩いてくる人を迎える灯であった。自然の威圧の中に、小さなあかりが見える時、旅人はほっと人間の優しさを感じるのである。・・

他には何の働きもできぬ老女でも、他人に光を与えることによって、彼女自身も他人のために生きるという人間の本質を維持し、しかもそのことによって、幸せをあじわうことができるのである。
明るくすること。心の中はそうでなくても、外見だけは明るくすること。明るくふるまうことは、外界への礼儀である。(引用終り)

幼児はどうしてあんなに快活なんでしょう、それに引き換え、年寄りはどうして不機嫌なんでしょう、それは、幼児は好奇心いっぱい、すべてが新しく面白いことばかりだから、年寄りが不機嫌なのはすべて経験した気になって好奇心を失っているから、という。
好奇心があっても健康、能力の衰えでそれが叶わず、不機嫌ということもあろう。でもそうなるのは自分の責任ではない、年のせいなのだから仕方ないと諦めて、せめて周りの人を不愉快にしない、外見だけでも明るくふるまう、は大切なことだ。自分も「顔で笑って、心で笑って」をモットーにこれからも頑張っていきたい。以前、兄や友人に「お前はおめでたい奴だ」と言われたが、褒め言葉として受け取っている。(続く)