市内公園の花祭り
蘭のアーチ
一般的な蘭
これもどこにでもある種類
すっきりしているので好み
北タイを強調するための山岳民族か
老人の覚悟(2)
■「戒老録」曽野綾子著より(3)
「若さに嫉妬しないこと。 若い人を立てること」
日本の森は、世界でも特殊な照葉樹林を形成しているという。 森の匂いというのは確かに一種独特のものである。 それは、朽ちかけた落葉の体臭である。
私は森が好きである。 そこに一人立つと、人間の運命を思う。 声もなく、ひそやかに生きる厳しさを思う。若葉が芽吹き、それが木を成長させる力となる。 葉はやがて散ってもなお土となって、若葉を、木自身を育てる。人間には二つの時期がある。 育てられる時代と、育てる時代と。
まだ老境の入り口にある人は、自分より高齢の人を立て、年をとるにしたがって、若い人にその場を譲る気持ちを持つのが自然である。私は、そのような行為の美しさを、実際に何人もの先輩から教えたれたのである。大人の美学は、大局に立って他人にとっていいことのために、自分を少々犠牲にして、さりげなくしていることである。(引用終り)
社会の中で暮らす個人は森の中の木に例えられる。永遠に生きることはなく後代に道を譲っていく。育てられる時代と育てる時代、と曽野さんは言っている。でも老年になっても若さを追求し、俺は、私は若いと思って、飲む、打つ、買うの生活を続ける。即ち、薬を飲む、注射を打つ、サプリを買うの生活だ。健康の衰えは年のせい、テニスだって、3ゲームやりたいと思っても、若い人が待っていれば2ゲームで我慢する。一方、遅れてコートに来たのに、待っているタイ人を押しのけて自分が先にプレーするファランがいる。そういう老人に限って、若いものに負けてたまるか、と全身サーブを繰り出す。でも技量は落ちる一方だ。若さを競うのではなく、実力の範囲で楽しむ、これができない年寄りはいる。曽野さんの戒めをコートでも実感するくらいだから、生活の上で自分も一歩下がって若い人を立てているのか、と心配になる。
■「戒老録」曽野綾子著より(4)
「若い世代の将来には、ある程度、冷酷になること」
年寄りになればなる程、今よりももっと、深く絶望すればいいのである。決して思い通りにはならなかった一生に絶望し、人間の創り上げたあらゆる制度の不備に絶望し、人間の知恵の限度に絶望し、あらゆることに深く絶望したいのである。
そうなってこそ、初めて、死ぬ楽しみもできるというものである。その絶望の足りない人が、まだ半煮えの希望をこの世につないで、いろいろなことに口を出す。若い者が、ばかをしでかしてもそれはそれでいい。 自業自得を体験することも、若者にとっては大切な資産である。(引用終り)
心の中はそうでなくても、外見だけは明るくすること。明るくふるまうことは礼儀、と曽野さんは言っているが、誰も心の中には絶望を抱いている、どうしてあの時、こうしなかったのだろう、こんな伴侶でよかったのだろうか、ムリしてもあっちの学校、こっちの仕事についていれば・・・。自分も寝る前に若い時のことを思い出して舌を噛み切りたくなることがある。あー、と声が出てしまうこともある。でも、こうしてで飢えず、凍えず、曲がりなりにも口に糊する身分なのだから、と思い直して眠りにつく。朝になって舌がちぎれていたということはまだない。
でも日本が劣化していくことに耐えられない気持ちがあるということは、まだ絶望が足りないのか。
■「戒老録」曽野綾子著より(5)
「生活の淋しさは、誰にも救えない。 あくまで自分で自分を救済するしかほかはない」
淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。老年というものは、いつか肉体がだめになることだ。眼が悪くなった場合、耳が聞こえなくなった場合、歩けなくなった場合を予測するのだ。
そして、ついに何もできなくなっても、それで自然だと思うことだ。自分の責任でそうなったのではないことには、気を楽にする癖を、初老と言われる年までにつけておくと、便利だろう。(引用終り)
病院に行くと医師は、正直に「年のせいだから仕方ないね」とは言わない。何か適当な病名をつける。それで年寄りは納得する。病気なら薬を飲むと治るかと思って飲む。飲んでも病気が治らないと医者を恨む。散弾銃はぶっ放す人も出てくる。
年を取れば友人も年賀状も少なくなる。これは当たり前、淋しく思うことはない。年を取ればあらゆる面で衰えるけれど、自分の責任ではない。そう思うことは大切だ。尚、認知症になれば淋しさを感じないで済む。認知症は、神様がくれる最後のご褒美というが、ご褒美を貰える僥倖は2割しかない。