昨秋の院展から
同上
足の描き方がいい
写実的ではないが
何処の民俗衣装だろう
背景の文字は?
老人の覚悟(3)
■「戒老録」曽野綾子著より(6)
「同じ年頃とつき合うことが、老後を充実させる原動力である」
老人は、どうしてか新しい友人を作りたがらない。 友人ができない理由は、
1)他人に対する本当の関心がないこと、
2) 多少、みえっぱりで自分をさらせ出せないこと、
3) 不寛容などがあげられる。
若者は忙しいのである。 老人にとって、本当に相手になれる相手は老人しかない。(引用終り)
若い人は若い人の生活があって、何も年寄りと付き合う必要はない。若者同士つるんでいる方が楽しい。自分が若い時を思い起こしても年寄りと一緒にいて気分が落ち着くとか楽しかったという記憶はあまりない。逆に年上の人を前にすると妙に緊張していたように思う。サマセット・モームは「若者が老人に近づいてくるのは何か下心があるからだ」と皮肉っているが、オレオレ詐欺はこの典型か。
チェンライ日本人会は平均年齢73歳というから、自分の相手に相応しい年齢の人ばかりだ。職場ではないのだから気の合わない人とは付き合わなくてもいい。気の合う人と昭和の話に打ち興じる。悪くはない。もう70を超せば、学歴、職歴、ムショ歴など何も関係なくなる。要するに見栄を張る必要がない。タイ語のできない年寄りがつるんでいる、と冷ややかに見る人もいるが、それでもいいではないか、と現役の頃より寛容になっている自分に気づく。
■「戒老録」曽野綾子著より(7)
「 一人で遊ぶ癖をつけること」
年を取ると、友人も一人一人減っていく。 いてもどこか体が悪くなったりして、共に遊べる人は減ってしまう。
誰は居なくとも、ある日、見知らぬ町を一人で見に行くような孤独に強い人間になっていなければならない。(引用終り)
同年齢の人と付き合え、と言いながら一方では曽野さんは「孤独に強くなれ」と諭している。親を見送り、兄弟、学友も減っていくという年代である。まだ遊べるときはいい、足腰が痛くなればテニスにも行けなくなる。こうして人と接する機会は減っていく。気が付いてみたら周りはご同輩ばかりの老人施設にいた、ということもあろうが、何時になろうと孤独であろうと楽しみはある。幸い、今はPCという道具がある。「世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我は勝れる」。良寛の先例に学びたい。
■「戒老録」曽野綾子著より(8)
「墓のことなど心配しないこと」
墓は残された者の配慮すべきことで、死んで行くものの口を出すことではない。
死のたった一つのよさは、何事も感じなくなることであろう。
私の骨がどこにどうなっていようと、もはや、何の疼痛も感じないと言うことなのである。 死後のことを心配することは、生きている人への圧迫になる。(引用終り)
けちで一筋で一代で身代を築いた赤螺屋吝兵衛(あかにしや・けちべえ)さん。落ちているものは何でも拾い、くれる物は何でももらう。道で会った男がけちべえさんをからかい、屁(へ)をあげるという。けちべえさん両手に屁を入れ家に帰り菜畑の上で手を開け、「ただの風よりましだろう」
三人の息子の誰に跡を継がせるか、けちべえさんの葬式の出し方を聞いて了見を知ろうとする。
吝兵衛さんでも死んだ後では片棒は担げない、がオチの落語「片棒」である。弔いは残された人の仕事で、死ぬ本人があれこれ心配しても始まらない。
先頃亡くなった石原慎太郎氏は「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記した。これだけでも氏が単なる保守ではないことを窺わせる。但し、葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開くという。オレの言う通りにしなかったな、と慎太郎氏は苦笑しているだろうが、死後のことは本人には何もできない。
時節柄、法事も葬式も少なく、家族葬が一般的になりつつある。お寺で大々的に葬儀を営む、はこれから少なくなっていくのだろう。自分の場合はどうなるか。エンディングノートには葬儀はさっぱりとタイ式に遺骨をメコンに撒いて欲しいと書いたが、自分で撒きに行くわけにもいかず、どうなるかわからない。
曽野さんは、60を過ぎたら、その人は人間として良い処は既に生きたのだ。 70を過ぎたら、その人はもっと余分に良い処は生きたのだ。だから、その後どれだけ長く生きたかと言うことは、大した問題ではない、と言っている。自分も70を過ぎ、余分に良い処を十分に生きた、と思っている。あれこれ心配するより、いろいろと人様にお世話になって、そう悪くない人生だった、と思ってその日を迎えたいが、思い通りになるとは限らない。