チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイの文化はアユタヤ朝から

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スコタイ歴史公園のアチャナ仏

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自分もこのポーズで撮った

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歴史公園入口にあるラームカムヘーン王像(想像上)

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歴史公園から、

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ここでラームカムヘーン碑文が「発見」された。

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仏頭は20世紀に造られた「スコタイ」様式

 

タイの文化はアユタヤ朝から

■演出されたスコタイ
日本にいたお陰で赤木攻先生の「タイのかたち」を読むことができた。スコタイ王国が滅んで500年、スコタイは歴史の中に埋もれていて、関心を持つ人は誰もいなかった。スコタイの継承者といわれるアユタヤ王朝でもチャクリー王朝(現王朝)初期においてもスコタイへの言及は全くなかった。スコタイが再登場するのは20世紀初頭である。何故、突然にスコタイが歴史の闇から浮上したのか? それはタイが、迫りくる欧州諸国に対抗するため、「輝かしい過去(歴史)」を作る必要に迫られたからであった。

タイの歴史と聞けば「水に魚あり、田には米あり」の豊かで牧歌的な理想郷、栄光のスコタイに思いを馳せてしまうが、これが演出だったと知って驚いた。スコタイについて書かれた旅行記、演劇、歴史的著作、歌曲、演劇などはすべて20世紀の産物で、それを推進した王族も特定されている。スコタイの歴史公園の「スコタイ様式」の仏像群は20世紀になって創られた。

タイ族からなる土豪国、スコタイが歴史上存在したことは確かである。しかし赤木先生は「学説の一つ」と断っているものの状況証拠から見てスコタイが、タイの現国家の直接的起源ではないと断言している。

■多言語社会
別にタイの起源がスコタイであろうとなかろうとどうでもいいじゃん、と思われる方もおられると思う。確かにそれがどうした、ではあるが、人間、自分とか、自分の国を基準としてこうなんだろうな、と思い込んでしまう。鎌倉、足利、北条、織豊時代を経て徳川幕府という単線歴史に慣れているものだから、赤木先生の著書を読むまでタイも同様の単線歴史かと思い込んでいた。

タイの歴史を読むとスコタイばかりでなく、ランナー王国、ハリプンチャイ王国、ナーン王国とかの土豪国が沢山出てくる上に、ビルマラオスカンボジアに滅ぼされたり、攻め込んだりと、目まぐるしく栄枯盛衰を繰り返していて、混乱してしまう。

チェンライあたりでは私はタイ人ではない、ランナー人です、などと言う人がいる。我が家に来た坊さんに「ランナー語を覚えたか?」と聞かれたことがある。タイ語とは違うランナー語があって、ランナー文字というタイ文字とは違う文字も使われていた。東北部ではクメール語、南部ではマレー語などタイ語ではない言葉が話されていたのだろう。

アユタヤ朝チャクリー朝初期、つまり14世紀から20世紀初めまで王都アユタヤでは30ヵ国語が話されていたという。これはアユタヤが港市国家であり、貿易で栄えたからである。世界中からペルシャ人、アラブ人、イタリア人、マレー人、モーン人、ベトナム人支那人、インド人、それに山田長政をはじめとする日本人集団も住んでいた。アユタヤ城内にはイスラム、中華、オランダを含め60の市場があったという。共通語としての「宮廷タイ語」は多様な言語の一つに過ぎなかった。

交易の主体は外来人で、王室が外国人であっても能力があれば財政、貿易、軍事の高級官僚として取り立てた。ギリシャ人やペルシャ人が大蔵大臣を務めていたこともある。王朝の官僚は請負制で、定められた金額を王室に収めればあとは自分の懐に入る。これは小役人から高級官僚まで共通であった。役職にある人は副収入がある、は現代のタイでも常識だ。この袖の下の慣習はアユタヤ朝の請負制度に淵源があると言われている。

■アユタヤ文化の影響
アユタヤ朝では外人でも王様のお覚えがめでたければ立身出世し、貴族に列せられた。貴族になればお金は溜まるが悩みもあった。まず貴族は集会に出てはいけないし、貴族同士の繋がりも禁止された。反乱の企てに加担する恐れがあるからだ。王様に疑いをかけられれば財産没収と共に残酷な刑罰が与えられた。また貴族は1代限りで世襲できない。栄えているときはコネとカネを求めて人が集まるが、貴族の身分を失うと全く寄ってこない。

王室に限らず、タイでは親分と子分は直接1対1の関係で子分同士のつながりはない。影響力がなくなると関係はすぐ消滅する。忠臣蔵がどうしても理解できないというタイ人は多い。亡くなった主君に尽くしてなんになる、だ。タイ人留学生にあれだけ目をかけてやったのに、帰国したら挨拶一つない、と嘆く日本の大学教授がいた。このドライな関係はアユタヤ朝からの文化だ。文化は制度や法律によってすぐには変わらない。

尚、読み書きを伴うタイ語の普及は1960年代からという。タイはまだ出来立ての国民国家である。王室と皇室の関係を見て同質の国と思うところから誤解が始まる。相互理解は簡単なことではない。