アチャナ仏
同上
ワットサーシー、スコタイ歴史公園内
ラームカムヘーン大王、誰も本物を見たことはない
ラームカムヘーン大王碑文(レプリカ)
衝撃の一冊
■「タイのかたち」
日本にいた時、最も衝撃を受けた本は、大阪外国語大学元学長、赤木攻先生の著書「タイのかたち」である。
多くの人は13世紀に花開いたスコタイ王朝がタイの始まりと信じている。スコタイ公園の微笑をたたえたアチャナ仏を思い浮かべる人も多いだろう。
タイ族が13世紀に立てたスコタイ王朝は3代目大王ラームカムヘーン(在位1279年頃 - 1298年)の代に黄金期を迎えた。ラームカムヘーンは最初のタイ文字を定め、中国との貿易も行われた。スコタイ王朝は15世紀まで続くが、スコタイ王朝の血を引くアユタヤ王朝の王子によって引き継がれる形で消滅する。
スコータイの歴代王はポークン(個人的な友情で治める君主、人民を保護し、悪を適切に廃する父親のような人であると説明される)と呼ばれていた。このポークンの思想(理想的君主像)はラームカムヘーン大王碑文にも説明されており、同碑文ではラームカムヘーンが、裁判も逐一公明正大に行い、悩みある住民の与太話を聞き解決を図ったとの旨が書かれている。この思想は先代のプミポン国王にも重なる。
スコータイ王朝は、仏教思想が花開いたタイの仏教の黄金期と見なされている。クメール建築とスリランカ様式を融合させたスコタイ様式と呼ばれる建築物が各所に建てられた。仏像美術ではスコータイ仏と呼ばれる仏像が造られた。これは緩やかな女性的な曲線に特徴される。スコタイ歴史公園のアチャナ仏はこの典型であろう。
■スコタイ王朝
ところが、赤木先生によると、栄光のスコタイ王朝は存在しなかった。スコタイ様式の美術、建築、またラームカムヘーン大王碑文、リタイ王碑文、三界経などタイ文字の発祥とされる遺物もすべて19世紀に作られたものという。スコタイやカンペーンペッにタイ族の土豪国があったことは遺跡ではっきりしているが、なんせタイ文字ができたとされるのが大王碑文のできた13世紀であって、それ以前は文字がないのだから記録がない。シナから遠かったので、史書にはシャムの土豪国を詳しく書いてもらえなかった。
それをいいことに、ではないが19世紀にラーマ4世と取り巻きの王族により、シャムにも西欧にも負けるとも劣らない素晴らしい王朝があり、その王朝の伝統、歴史を引き継ぐのが現バンコク王朝(チャクリー朝)という伝説が作られた。
自分もスコタイ王朝の栄華をガイドブックで信じ込んでいたから、この学説には心底、吃驚した。韓国の発展は36年の日韓併合のお陰、20万慰安婦はもちろん、韓国5千年の歴史は全くの作り話だった、と真実を知った韓国人もこんな感じか。19世紀のタイ(シャム)は東のフランス、西のイギリスに国土を削り取られ、国の存続も危うかった。英仏の植民地の緩衝国として何とか命脈を保っていたものの、せめて歴史、文化で欧米と対等に立ちたい、その気持ちはわからないでもない。
■典型的なタイ人はいない
赤木先生の「タイのかたち」は「序章タイにはタイ人はいない」から始まる。自分もチェンライのスーパーで、いろいろな顔、体型、肌の色をした人々を眺めるうちに典型的なタイ人の顔はないということに気付いた。
タイの前に2年暮らしたウズベキスタンも先人から「ウズにはシャラポアから朝青龍までいろいろな顔の人がいるよ」と聞いていた。確かにウズにはアラブ人から蒙古系、スラブ系といろいろな顔の人がいた。ウズは絹の道の要衝の地を抱え、マケドニア、アラビア、ペルシャ、突厥、蒙古、ロシアなどの異民族が行き交った。行き交ったといえば聞こえはいいが、基本的に男はみんな殺され、女は戦利品、要するに歴史的に混血が進んだということだ。
タイも地続きで、ビルマ、クメール、ラオスとタイは勝ったり、負けたりの戦争を繰り返し、その間に中国雲南からも人がやってきた。タイ人の先祖をたどるとクメール系、モーン系、ムスリム、華人、ラーオ系、タイ・ユワン、ミエン、インド系、ベトナム系、プータイ、タイ・ヤイなどなどきわめて多様であるが、これがタイ人という典型的なタイ人はいない。これが赤木先生の結論である。タイ人はいないが、ラーマ4世が「タイ民族」という概念を導入し、100年かけて「タイ」を作り上げた。ともすれば民族自決に走り、バラバラになってもおかしくない地域を一つの国にまとめるには、先人の知恵と努力があったに違いない。
先祖もずっとこの島国に住んでいて、生まれながらに日本人であることを疑わないですむ日本国民は幸せ、と思う。