モラエス
モラエスの遺言、死ぬ16年前に書かれた。
書斎を模したもの
殆どは戦災で焼けたが、この脇息は実際使われたものという
モラエスの墓
モラエス余滴
■繋がっていく糸
新田次郎の息子である藤原正彦は、その留学体験をつづった「若き数学者のアメリカ」という本を書いた。この本は1978年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。久しぶりに読み返してみたが、精神の瑞々しさは変わりない。言葉の通じない世界に入っていく不安は自分のタイロングステイにも通じるところがある。その後、藤原氏は「国家の品格」、「この国のけじめ」、「日本人の誇り」といった一連の著作で、サヨクからの反感、攻撃を受けたが、彼の考え方は多くの人の共感を得て、「週刊新潮」に「管見妄語」というコラムを持つに至った。「管見妄語」はかの山本夏彦翁の名コラム「夏彦の写真コラム」の後を継ぐものであった。
名コラムは溜まると単行本になる。夏彦翁の随筆集は愛読書の一つだった。「管見妄語」もちょうど自分が日本を離れていた時と重なっていたので全巻読んでみた。その中で、父、新田次郎との合作小説「弧愁サウダーデ」に触れた文章があったので、この700ページ近い小説を読んだ。ついでにモラエスの著書も図書館で借り、更には四国遍路の途次、モラエスゆかりの地、徳島に下り立った。縁に導かれ、は人間関係だけではない。本や映画、音楽もこの次はあれ、と見えない糸で繋がっているように思う。
■異国に住む悲哀
モラエスは「徳島のラフカディオ・ハーン」と呼ばれている。故国を離れ、異国に暮らす外人にはなぜか哀しさが付きまとう。チェンライで独り暮らす自分にも侘しさが纏わりついているのではないか。毎朝テニスして、毎晩ビール飲んで、バイクでビンボー旅行して、勝手気ままな生活を送っているくせに何が侘しいだ、と批難を受けることは承知である。でも人はその晩年を考えるとき、モラエスの最後が重なって見えるのではないか。
孤独死予備軍の特徴はナイナイ尽くし、そのうちの一つが身の回りを気にしない、と書いた。モラエスは、死去の1年前から脳梗塞の後遺症、リューマチ、糖尿病、心臓病のため、右腕がマヒし、足も縺れて、壁や障子に掴まらないと歩けなくなっていた。元気だったころは、朝起きると洗顔ののちに上半身裸になって冷水で体をふく。夏でも冬でも風呂には入らず、代わりにときどき勝手口で行水をする。海軍士官であった時からのやり方だ。でも晩年、体が不自由になってからは手に力が入らず、清拭もなおざりだったようだ。
汚い部屋で悲惨な生活を送るモラエスを見かねたポルトガルの領事夫妻が神戸での療養、援助を申し出た。だがモラエスは、一人徳島で一生を終えたい、ときっぱりと断った。
モラエスは、作品のなかで畳の美しさ、ふとんの快適さ、和風家具のすばらしさを語り、家の中にあるものを一つずつ数え上げて、人形の家のような我が家を愛情こめて紹介している。だが、彼の死後、モラエス宅を訪れた代理公使フレイタスは、一歩、家に足を踏み入れて愕然とした。無秩序と混沌、と書いているが、要するに「ごみ屋敷」と化していた。2階は何カ月も人が入った形跡がなく、部屋の中に蔦が絡みついていた。
手伝いの女性は来ていたが、何事も思い通りにしないと気のすまないモラエスは、片付け、掃除を拒んでいたのだろう。
■モラエス断章
神経質というより神経症と言ってもいいモラエスは、強迫観念、被害妄想に悩んでいたが、文章を書く時だけは心が和らいだという。自分はさほどの悩みはないが原稿を書いていて時間を忘れることがある。不都合は火にかけた鍋を焦がしてしまう、くらいだがモラエスにもそういったことがあったのだろうか。
徳島と言えば阿波踊りであるが、「阿波踊り」と呼ばれるようになったのは昭和に入って大分たってからで、モラエスは「徳島の盆踊り」とだけ書いている。
また、モラエスの半生を描いた日本・ポルトガル合作「恋の浮島」という映画があることを知った。1982年制作、三田佳子がおヨネを演じている。
モラエスの長男ジョアンはアメリカにわたり実業家として活躍し、2児を英国で養育した。花野富蔵は、モラエスの孫息子はケンブリッジ大学の教授となったと書いている。
「恋の浮島」を撮ったパウロ・ローシャ監督はモラエスのドキュメンタリの制作を思い立ち、出演を依頼しようと直系の孫娘であるマーガレットにロンドンで会った。70歳を越えたかと思われる、金髪ではあるが顔は中国人の女性だったという。大富豪である彼女は出演を拒否したばかりか、映画を買い取りたいと申し出た。兄の名誉と家名が汚されると思ったらしい。彼女にとって祖父モラエスはヤクザな無頼漢でしかなかった。