駅前の大通り,シャッター街
眉山山頂、高校生の遠足
山頂より徳島市街を見る
山頂のパゴダ
徳島ビルマ会の生き残りの方はいないだろう
モラエスゆかりの地、徳島(2)
■久松留守
「お染久松」は宝永5年(1708)に起こった大坂瓦屋橋(かわらやばし)油屋の娘お染と丁稚(でっち)久松の心中事件を題材にした浄瑠璃・歌舞伎などの通称である。
歌舞伎では「お染久松もの」としていくつかのバージョンがある。その一つ、「新版歌祭文~野崎村」は、純情な田舎娘お光と許嫁の久松。久松への叶わぬ恋に死ぬ覚悟のお染。若い三人のせつない恋の結末は、痛ましいまでの哀しい幕切れへと向かう、とある。
心中のあった後、大坂では不思議な疫病が流行した。お染の逢いたい思いの願望が余りにも激しいので、毒気、殺人的な熱を発した。そして、この不思議な訪問者に訪問された人を熱病に罹らせ、殺してしまう。‥‥この疫病の異変はこう説明された。そして、その疫病は「お染かぜ」という深長な意味を含んだ名で知られるようになった。それから200年後、スペイン風邪が日本にも押し寄せた。この時、庶民は「お染かぜ」の再来に他ならないことを発見した。人々は小さい紙切れに「久松留守」と記し、そこら中の家の入口に貼るようになった。お染の霊魂がそうした文字を読むと、その家に入って荒らさないで他の家を訪ねると予想して…。
モラエスは書く。
「久松留守」! なんてやさしいまじない。ほとんど涙がこぼれるほど感動させられるし、あまりにも強く胸を打たれるので、いま書いているおしゃべりで、どの表題よりも、特に、この表題を選んだ。「久松留守」—苦悩している哀れな人類が、言葉や思想でその運命を支配する神秘的な力、万能で慈悲深い神仏に向かって発するおびただしい救援の叫びと一緒になっていく、いま一つの救援の叫びである…。
以上はモラエスが1919年に書いた「久松留守」の一部である。モラエスはスペイン風邪蔓延の前に亡くなったコハルとおヨネが傍らにいるという悲しい錯覚をこの短編の結びにしている。
この時から100年、今、武漢肺炎で大騒ぎであるが、人が取りうる手段は「久松留守」の神仏に発する救援の叫びに等しい‥‥。灯りを消せば感染拡大を防げるのだろうか?
■徳島駅から眉山へ
モラエスは1913年にすべての公職を離れ、おヨネの墓がある徳島に移り住んだ。彼は「神戸大坂にくらべて温暖な気候が自然に助長する永遠の怠惰のうちに眠りこけている貧しい土地である」と徳島を概観した後で、「徳島は、何よりもまず、神々の町、仏たちの町、死者の町であり、人々は善良で信心深い」と紹介している。
明治22年(1988年)に市制が施行され、全国に40の市が出来た。徳島は当時人口6万を越え、全国で10番目の大都市であった。
徳島駅から眉山へは歩いて10分ほどの距離である。大通りの両側の商店街になっているがシャッターのおりた店が多く、物寂しい。県庁所在地であるが人口25万と、四国4県の中では一番少ない。眉山の標高は290m、山上は公園となっており、そこにモラエスの銅像があることを知っていた。眉山の麓の寺町には彼とコハルの墓がある潮音寺がある。またモラエスの住んだ伊賀町もこのあたりだ。
眉山山頂に向かうケーブルカーは2両編成だが、客は自分とカップルの2組だけ。よって1車両に一人となった。前日の太龍寺のケーブルカーと同じく、「残念ながら黄砂の影響で見晴らしが、」というお詫びの放送があった。
■公園のモラエス像
山頂の展望台の周りには遠足にやってきた高校生が三々五々、弁当を広げていた。展望台からは阿讃山脈、淡路島、紀伊の山々が見えるはずだったが、まあ市内と吉野川を眼下に見たことで満足した。
山上の眉山公園はやたらと広く、モラエス像は山頂駅からかなり離れた場所のようだ。山頂にはビルマ式のパゴダがある。インパール作戦で散った徳島143連隊を悼むモニュメントだ。前日、太龍寺の舎心ヶ嶽を駆け足で登下山をしたため、腿の筋肉が痛い。リュックを背負い、痛む足を引きずって、坂や石段を歩く。ビルマで苦労された英霊に比べれば、何のこれしき、と歯を食いしばって頑張る。