チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

モラエスゆかりの地、徳島(4)

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亜珍とジョアン、ジョゼの2子 右はモラエス

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コハルの写真

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幸運に巡り合った永原デン

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参考にした本1

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参考にした本2

 

モラエスゆかりの地、徳島(4)

■亜珍
展示室で、モラエスと関わりのあった女性、亜珍、おヨネ、コハル、そして永原デンの写真を見て回った。

亜珍はジョアン、ジョゼの2人の息子と写っている。新田・藤原父子の「弧愁」では、亜珍は強欲でヒステリーの悪女として描かれている。でも亜珍は3度来日、徳島には2度やってきてモラエスと会っている。モラエスも息子が成年になるまで養育費を払い続けているし、亜珍の兄は香港一の大富豪の妹と結婚していて、その一族の庇護のもと、長男は大実業家に、次男は香港大学建築学を学んだのちに米国に渡っている。

「弧愁」の中に神戸で再会した次男にモラエスが「得意科目は何かね?」と訊ねる場面がある。ジョゼは「数学です」と答える。これは数学者である藤原正彦教授のツクリではないかと笑ったものだが、ジョゼはマカオのカレッジで数学教師をしていたことを後で知った。案外、藤原さんのホラ話ではなかったようだ。

モラエスの亡くなる前年、亜珍は徳島に来た。庭先で洗濯をしている亜珍にモラエスが羊羹を勧める。手が汚れるからという亜珍にモラエスは駒下駄をつっかけて、亜珍の口に羊羹を入れてやった、と隣人が証言している。
亜珍母子は何度かマカオでの同居を申し出ている。亜珍たちがモラエスにたかろうとした、は彼の被害妄想から来たものだろう。

■コハル
コハルはおヨネの姪であり、病床にあったおヨネを神戸で看病している。モラエスの徳島移住に伴い、彼の世話をするようになった。

「コハルは、健康をうっているかと思われるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとした娘であった。美人とは言えなかった。それとはほど遠くすらあった。だが、ほっそりした横顔、おてんばらしいきびきびした動作、—彼女は主として戸外で育ったのだ―率直な柔和なまなざし、まっ白な二列の歯並びを見せて口元に絶えず浮かべる微笑、かっこうのよい手足に魅力があった。それに、彼女のような貧しい階級の大部分の女にくらべれば、聡明であった。自然の美しい事物を前にして好奇心の強い、研究心のある、感じやすい、芸術的なすぐれた気質に恵まれていた」(コハル)

コハルとモラエスの徳島生活はわずか3年、その後は独り暮らしとなる。おヨネとコハルの墓参り、これがモラエスの生涯にわたる日課となった。

■永原デン
みすぼらしい格好でよたよた歩きまわる変な外人、屈辱的な扱いをされても仕方がない、などと自虐的に書いているが、故国で文名が高まるにつれて、モラエスは徳島の有名人になっていく。東京からも訪問客がやってくるし、原稿の依頼にも応じなければならない。百田尚樹さんほどでもないが、自著の売れ行きに一喜一憂している。ピエール・ロチや小泉八雲と並び称されて、身に余る光栄と喜んでもいる。最晩年は別にして、多忙かつ幸せな徳島生活であったように思われる。

お祭りとか近所の返礼など、自分がタイのお寺にタンブンするよりは多額のお金をモラエスは出していたので、周りからは小金持ち、とは思われていたようだ。でも死後、残された預金を見て皆吃驚した。23500円、今の貨幣価値にして2億円ほどあった。もっと人が驚いたのは、遺産の半分を、神戸で6カ月ほど妾奉公をしてくれた永原デンに寄贈すると遺書に記されていたことである。

当時の山陰新聞には「寂しく逝いたモラエス氏/十数万の遺産を廻り/過ぎし日の思ひ出/思はぬ福音ころげこむ/今は矢田夫人の彼女は語る」という見出しで、デンのインタビュー記事を掲載している。デンは最終的に徳島警察を通じて遺産を受領したが、訪徳の際に夫婦はモラエスの墓に詣でたという。デンは遺産受領後、数年ほどして島根で肺炎のため亡くなっている。モラエスはデンの故郷、小泉八雲の住んだ島根に移住するつもりだったが、彼の選んだのは徳島であった。

■最期について
モラエス認知症に罹り、糞尿まみれで死んだということです、と中村光夫が言っている。これは山田風太郎の「人間臨終図巻」から孫引き(丸写し)したが、実際はどうか。

1924年の6月30日に手伝いの斎藤ユキ(コハルの母)を下がらせた。その翌日、7月1日に土間に転げ落ちて亡くなっているモラエスが発見された。発見者は長屋の隣人である。軽い脳出血リュウマチ、糖尿病、心臓病のため、身体は不自由であったが、頭のほうは最後までしっかりしていた。独り暮らしでも周りとの関係を保つことは大切と分かる。

モラエスの独特の生き方は日本の文人に影響を与えた。吉井勇は「モラエスは 阿波の辺土に死ぬるまで 日本を恋ひぬ かなしきまでに」と詠んでいる。

 

本シリーズでは岡村多希子著「モラエスの旅」彩流社(2000年)、花野富蔵訳「おヨネとコハル」集英社(1983年)を参考並びに引用させて頂きました。