太龍寺のさくら
太龍寺樹齢六百年の杉、樹高48M、幹回り6M
大師様ブロンズ像 超望遠83倍
阿南市内のスナック
この本を読みました。
モラエスゆかりの地、徳島(1)
■モラエス小史
小泉八雲と並んでジャパン・クールのハシリとされるモラエス(ヴェンセスラウ・ジュゼ・デ・ソウザ・デ・モライシュ)はポルトガルの軍人、外交官、文筆家、1899年に来日、神戸の副領事となり、その後、総領事として1913年まで務めた。モラエスは八雲以上に日本に心酔した。「私は、日本を気も狂わんばかりに愛し、日本を、まるで神酒に酔い痴れるように、むさぼり飲んだ」(モラエス、日本の異国情調)
モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネ(福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。しかし1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞任して引退し、墓を守るため、ヨネの故郷である徳島市に移住した。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれてしまう。モラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかった。身長180cm以上と日本人に比べて長身で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたり、「西洋乞食」と蔑まれたりしていたという。モラエスは1929年、徳島市で孤独の内に没した。
■『孤愁(サウダーデ)』
『八甲田山 死の彷徨』や『アラスカ物語』などで有名な新田次郎は、ポルトガルの文人モラエスを主人公として小説『孤愁(サウダーデ)』を1979年8月20日から毎日新聞に連載し始めたが、翌年2月15日に心筋梗塞で急逝したため、その連載は同年4月18日の掲載分で中断してしまった。内容の面で言うと、まだ徳島に移住する前である。
新田次郎の息子、藤原正彦は「「父が精魂を傾けながら絶筆となってしまったこの作品を、必ずや私の手で完成し父の無念を晴らすつもりだ」と父新田次郎の読んだ資料はすべて目を通し、徳島を数十回取材訪問し、ポルトガルには父の遺した9冊の取材ノートを持って3度旅行し、父とまったく同じルートを辿り、同じ人に会い、同じホテルに宿泊し、同じ酒を飲みながら、同じ体験をしたという。そして世界でも稀な親子の合作小説、『孤愁(サウダーデ)』が2012年に完成した。
新田次郎死去の直後、藤原の決意を聞いた井上靖はいくら親子でも文才は遺伝しないと危ぶんだが、父が前半850枚、息子が550枚を書き足して父の死後32年を経ての快挙だった。四国旅行の前にこの小説を読んだことから、太龍寺参拝のあと、高松へ戻る途中に徳島でモラエスの足跡をたどってみた。美人と言われたおヨネさんの写真を間近に見たいという気持ちもあった。
■共通点
モラエスと自分には、異国に住みながら故郷への憧憬を消し去ることが出来ない、そういった共通の感情があるのではないか、と考えていた。藤原正彦は「孤愁(サウダーデ)」の意味について、以下のように語っている。
「サウダーデは、ポルトガルにしかない概念です。戻れない故郷や会えない恋人、二度と帰れない人や時間や場所を、切なくも懐かしく思い出す、しかもそこには甘い感傷が織り込まれているんです。父も郷里・信州を思う時、この感情を抱いていたはずです。父はモラエスの中にその感情を見つけ、深く共感した。それが執筆の大きな動機だったのでしょう」。
モラエスはマカオでデンマーク船員と中国女性との間に生まれた亜珍と一緒になり、2児をもうけている。また、子供はいなかったが、神戸で芸者福本ヨネと13年暮らした。ヨネが38歳で亡くなった後は、ヨネの生地、徳島に移り、ヨネの姪であるコハルと暮らしたが数年を経ずにコハルにも先立たれる。このあたりは著書、『おヨネとコハル』『日本精神』『ポルトガルの友へ』『徳島日記』に詳しい。(と言っても全部は読んでおりません)。
モラエスはマカオの淫売宿から14歳の亜珍を買い取って暮らし始めた。ヨネも大阪の遊郭から落籍させ、コハルはヨネの実家の貧しさに付け込んで世話をさせたのであって、いずれも正式な結婚はしていない。タイに住む日本人でもモラエスと同様に「現地妻」を持つ人はいる。
■独りで暮らすということ
昭和4年7月のある夜、モラエスは、酔っぱらったあげく、水を飲もうと庭の井戸に行こうとして縁側から転げ落ち、頭部を打って、誰に看取られることもなく死んだ。徳島生活16年、享年75。彼は晩年、認知症に罹っていたとも言われる。
評論家中村光夫によると「手足の自由を失ってから、世話をしていた女が大小便の始末に1回いくらという報酬を要求したために糞尿にまみれて死んだということです」。
独り暮らしとは糞尿にまみれて死ぬことを覚悟することである、と曽野綾子さんが書いていたことを思い出した。自分の末路もモラエスに重なるのだろうか。