暮の靖国神社、中は正月を迎えるため工事中 相変わらず人出はパラパラ
神門
靖国、神池庭園
新年準備 靖国南門
九段下方面
九段下より大村益次郎像を臨む
ポリコレの胡散臭さ
■吸煙シーンばかり
1950年代から1960年半ばまでフランスで盛んだったヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の映画を観ると、やたらと煙草を吸う場面が出てくる。女性が煙草を取り出すと、男がマッチかライターですぐ火をつける。アヌーク・エーメ主演、名匠ジャック・ドゥミ1960年制作の「ローラ」では母子家庭の食事に招かれた男と母が煙草を吸う、すると14歳の娘がもう大人だから、と男から1本貰って煙草を吸うのであるが、母親は止めようともしない。
今、喫煙者はヤク中扱いだ。映画でも上記のような場面はもう許されないだろう。経済評論家の須田慎一郎氏は喫煙所で一服した後、エレベータに乗り込んだ。すると中にいたジジイに「この中に煙草を吸った奴がいる」と言われたそうだ。
ウッディ・アレン脚本、監督の2018年「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」では煙草を吸う場面はないが、大麻をふかす場面が出てくる。煙草はダメだがマリファナはOKか。この映画は洒落た会話が随所にあって佳作と言えるが、米国では公開されていない。どうしてかというと、訴訟では無罪となっているが、ウッディ・アレンと養女との間に性的な不祥事があったからという。映画の面白さと性癖は関係ないと思うが、極端な潔癖主義は多分、今、流行りのポリコレから来ているのだろう。
■ポリコレ難民を受け入れよう
欧米では古くは魔女裁判、近年では禁酒法など中庸から逸脱したおかしなことをやってきた。この分だとそのうち禁煙法ができるだろう。煙草や酒くらいどうでもいいし、ハリウッド映画でやたらと黒人が登場するのも仕方ない。でも今、欧米に蔓延っているポリコレは現代の魔女裁判と言えるほどひどい段階にあるらしい。
例えば米国の大学は4年間リベラルアーツ(教養)教育が中心で本格的な専門教育は大学院に入ってからである。このリベラルアーツがポリコレを振りかざす左翼教授に占拠され、ポリコレに反対する教授や学生はレイシストとして大学から追い出されているという。
数学を難しくすると女子学生が入学しにくいからと数学教育のレベルを下げたり、一部には数学は性差別的な学問という主張もなされている。
筑波大学では英語で行われる授業だけで卒業単位が取れる理系学部があり、ポリコレに嫌気がさして留学してきた米国人学生がいる。日本の大学はポリコレに汚染されていないとアピールすれば優秀な欧米人留学生(ポリコレ難民)が大挙してやってくる。そう筑波大学の掛谷英紀准教授が正論12月号に書いている。中国人留学生よりずっと国益にかなうのではないか。
■ポリコレは平等を目指す
ポリコレを主張するリベラルの人たちは「平等」を好んで口にする。でも誰もが納得する平等などこの世に存在するのか。動物の世界ではライオンにしろ、ニホンザルにしろ、ヘラジカにしろ、競い合って一番強いオスが群れ全体のメスを総取りする。よい子孫を残すための知恵だ。人間だって力のあるオスがメスを支配する。力とは金力でも筋力でも学力でも精力でも権力でも構わない。女性にもてる男性を見れば、動物の世界と変わらない部分はある。動物行動学者の竹内美代子さんは、リベラル政治家の主張は力のないオス猿がボス猿にメスを「平等」に分けろというに等しい、リベラル政党の面々を見ても女に好かれるような男は一人もいないという。竹内さんは保守男性に比べ、リベラル男性の睾丸は軽いと主張している。でもどうやって重量を計測したかについては書いていない。
毛沢東は若い時、北京大学の図書館に勤めたが、田舎者で学歴も収入もない毛沢東に女子大生は洟もひっかけてくれなかった。それで彼は共産主義に惹かれ、政権を握ると手あたり次第、女を漁り、知識人を殺しまくった。つまり歴代中国皇帝と同じことをした。
非モテ顔の揃った立民や共産の議員さん達はいつか、権力を握り、毛沢東と同じことをしたいと思っているのではないか。平等を叫ぶ人が、結局は全体主義を目指している。
ポリコレ推進者、BLMなどのリベラル勢力がマルクス主義者のアンティファと結託しているのも当然の流れだと思う。しかしこのリベラル勢力が米国、欧州において、日本とは比べ物にならないくらい深く社会に浸透していることに危惧を感じる。
昨今の洋画にはホモやゲイがやたらと出てきて辟易するが、少数者の権利を守れ、がポリコレの主張である。でもLGBTばかりでなく、一夫多妻者の権利を守れ、というグループも現れたという。非モテ系のリベラルはこの権利主張に賛同するのだろうか。