チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

高校の同級生と

f:id:hidenaka24:20201118081611j:plain50年前と同じ駅

 

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守谷の浜

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このあたりが九段高の縄張りだった

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 至大荘の門柱

 

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 海ほたるから千葉方面を臨む

 

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 海ほたる、幸せの鐘カップルが鳴らすと恋が成就するとか・・・

 

高校の同級生と

■伝統ある臨海施設
高校時代の同級生3人と千葉県勝浦にある至大荘に行った。至大荘とは我が母校、都立九段高校の夏季臨海施設である。昭和2年に我が先輩たちの父兄が興津町畑尻に2千坪の土地を購入し、5つの寮、食堂等を建築した。ネットによると旧制中学時代の至大荘の様子はこのようなものだった。

「本校創立とともに、白浜や鵜原などで、すでに臨海生活がはじめられていたが、至大荘落成とともに、夏と冬と 2回にわたる本格的な訓練は開始されたのである。至大荘生活は、游泳訓練に止まらず、行住坐臥すべてが訓練で、食事作法・作業・マラソン・行軍など本校独特な行事が多かった。
特に冬期のみそぎ・騎馬戦などはその最たるものである。当時の中学1年生に夏期20日間の訓練は、つらいものであったにちがいない。しかしそれだけに、今日実社会に出て、真に役立つ体験はこの生活を通して得られたものではあるまいか」

自分たちの時代もこの臨海施設、至大荘で遊泳訓練を受けた。昔と違って期間は夏の1週間だったが、遠泳や崖からの飛び込み、キャンプファイヤー、寝入った後のストームなど月去り星は移るとも忘れ難い思い出となっている。同級生と会えばそういった話が出るが50数年前に離れて以来、至大荘をを再訪することはなかった。

■友人の誘い
20年以上前のこと、南房総に出かけた友人が、ホテルの人に勧められて近くの浜を訪れてみた。あ、俺、ここに来たことがある。彼の直感は正しかった。紛れもなき至大荘があったのである。観海亭という水泳指導助手たちの宿舎もあった。同行していた娘さんに「お父さん、なに興奮しているの」と笑われたそうである。たまたま、臨海学校が開催されていた。彼はすぐ町へ取って返して買い込んだビールケースを、観海亭に差し入れたという。
その彼が、チェンライに戻れぬ自分の無聊を慰めようと、至大荘再訪のドライブに誘ってくれた。多いほうがいいだろうと男女2名の同級生も同行、総勢4名、内3名が至大荘を訪れるのは50数年ぶりだ。遠足に行けるのでワクワクする。友人の心遣いには感謝の言葉もない。

グーグルマップで見ると品川区から外房線上総興津駅までは約100キロ、1時間45分の距離である。Go toトラベルの影響で渋滞するかと思われたが、アクアラインをスムーズに通って2時間ほどで上総興津駅に着いた。記憶力抜群の元女子高生が、両国駅からここに着いて、駅前で全員整列してから駅に向かって右の道を至大荘に歩いて行ったのよ、と説明してくれた。へー、そうだったんだ。友人があの時、蒸気機関車でここに来たんだ、と言っていたが、ほかの3人はそうだっけ・・・? その後、ネットで調べてみると昭和44年まで外房線蒸気機関車が走っていることが分かった。友人が正しいのかもしれない。まだ存命中の生き証人が少なからずいるので、そのうち真実が明らかになるだろう。

■遠泳の思い出
駅から至大荘へと歩く。当時は砂利道だったよ、と女高生が言う。北風がやや強く、白波が立つ守谷の浜に出た。季節柄、浜に人影はない。浜の両側の山、沖の岩に見覚えがある。あれから半世紀以上か。こっちの浜が私たちで向こう側は世田谷区の千歳高校の生徒が使っていたという。そうだったなあ。車の中からずっと4人の会話は途切れない。日頃は「ポイントカード?ないです」くらいしか喋らないのでみんなの話についていくのがやっとだ。

誘ってくれた友人は「赤帽」だった。赤帽とは遠泳に参加できない金づち組である。遠泳参加者を守谷で見送った後、徒歩で到着地である興津浜に行ってくず湯を用意して、遠泳を終えた同級生を拍手で迎える。あの屈辱、お前たちにわかるか。医学部の教授を務め、功成り、名を遂げた友人だが、会えば必ず「赤帽」の話を持ち出す。ああ、またお前の伝統芸能が始まったな、と冷やかすのであるが本人はいつも真剣だ。まあ、昔話はお互いの了解があって楽しいものである。

■山と海のドライブ
上総は山ばかりで田んぼが少ない。128号線には今はトンネルがあるが、昔はおせんころがしのように峻険な道が続いていたのだろう。江戸時代の上総には大多喜藩、勝山藩、館山藩、一宮藩など、1万石台の小藩がひしめいていたが、実収石高は半分の4,5千石だったという。急坂の山道はチェンライを思い出させたが、山の風景やススキは優しくて嫋やかである。やはり日本はいいな。

帰途、まだ行ったことがないという自分のために「海ほたる」に寄ってくれた。ポックリ逝けますよう、元気でまた皆と会えますように、との思いを込めて、海ほたる4階デッキにある「幸せの鐘」を鳴らした。