チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本人墓地

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タシケント日本人墓地にお参り

戦後、スターリンの強制連行で60万人にも及ぶ日本人がシベリアに抑留され、6万人の尊い生命が失われたことは、日本人として決して忘れることのできない事実だ。そのうち、2万3千人の抑留者がウズベキスタンで強制労働に従事し、817名の日本の若者がウ国で帰らぬ人となっている。死亡率が低かったのは、気候がシベリアに比べて多少、よかったこと、シベリアで1年余りを過ごした抑留者のうち、若くて過酷な労働に耐えられそうな健康な若者を選抜してウズベクやカザフの中央アジアに送ったから、ということもある。

8月15日の終戦の日、日本センターからバスが出てタシケントの日本人墓地に行った。総勢十数名、お父さんが抑留者としてタシケントにいたというシニアボランティアのSさんも来ていた。ウズベク人墓地の一角にある日本人抑留者墓地はきれいに清掃されていて、日本から送られた桜の若木が風にそよいでいた。
日本センターのI 所長が千羽鶴や途中で買ってきた花を、79名の死亡者名簿の刻まれた「不戦の誓い」の碑に飾る。更に純米日本酒を惜しげもなく碑に降り注いだので、あたりになんともいえない芳香が漂った。おー、もったいない、直会(なおらい)で、こちらにも味あわせてもらうほうが供養になるのではないか、と不埒な考えが頭を掠める。ちゃんと線香が用意されていて参加者一同、数本ずつ線香を手向ける。湿度が低いのでライターの火がすぐ線香に燃え移る。線香は大使館から拝領してきたものである。大使館には我ら邦人のために必要と思われる冠婚葬祭用品がすべて用意されているそうだ。

タシケントから駆けつけた邦人も含め、20数名で黙祷をささげ、墓参りと平和祈願のセレモニーは終わった。

黙祷を捧げる人の中にジャリル・スルタノフさんがいた。彼は今は退職している電気技師だ。仕事柄、日本人抑留者が作った発電所や高圧電線の鉄塔を見て日本人に興味を持った。彼は敬虔なイスラム教徒であり、コーランの「神が人間を作り、その起源は同じ」という教えから日本人を更に理解したいと思い、当時の記録、資料を個人的に集め始めた。そしてウ国各地に散らばる日本人墓地、建設された工場、発電所、学校をたずね、当時を知る人からの聞き取り調査を行った。明るく、努力を惜しまず勤勉で、手先の器用だった日本人抑留者に感謝し、懐かしい感情を持っている人にどこででも出会った。外国のためにこんなに頑丈できれいな建物を建ててくれたと、今もそこに住む人が感謝の言葉を述べる。

そういった聞き取りや当時のウズベク人が抑留者からプレゼントされた品物をもとに、スルタノフさんは日本人墓地を出たところに「1940年代ウズベキスタンで生活した日本人の記録展示場」という個人資料館を開いた。「捕虜」とか「抑留者」という言葉を避けているところに彼の気持が感じられる。館内は8畳ほどの部屋2つのこじんまりしたものだが、中にはウズベク人の日本人抑留者に対する思い出がぎっしりと詰まっている工事で立ち退きになる家の人に同情して、抑留者が作ってくれたゆりかごがある。寄贈してくれたウズベク人は55年間、子供も孫もこれに揺られて育ちました、という。木製のゆりかごは60年を経ても、軋みひとつなく、優しく揺れる。民族衣装を着た女性をスケッチした木版画もある。プロの画家が抑留されていたのだろう。

1955年にはソ連政府から日本人墓地を取り壊して整地するようにとの命令が出たが、ウ国の人は取り壊さず、場所によっては清掃、維持に努めてくれた。1995年にはアンディジャン、アングレン、チルチク、コーカンド、フェルガナなど13箇所に散在する日本人墓地からそこの土がタシケントの墓地に集められ、総合的な鎮魂碑が建てられた。碑の周りと墓地は毎日、清掃が続けられている。誰に頼まれたわけでもなくずっと日本人墓地の清掃を行ってきたウ国人親子の話は中山恭子元大使の「ウズベキスタンの桜」の中に詳しい。

スルタノフさんの淡々とした説明は、お父さんがタシケントに抑留されていたという在留邦人Oさんの通訳で我々の心に沁みた。ウズベク人と抑留者の交流の話に感動の涙を抑えきれない女性もいた。親日ウズベキスタンの礎は60年前の2万3千名の我々の先輩のおかげで出来上がっていることに改めて感謝した。

スルタノフさんの資料館はいつも開いているわけではないので、もし見学希望の方がいましたら、事前にスルタノフさんに連絡して下さい、とのことです。