忘れられた武漢肺炎
■武漢肺炎
武漢肺炎の単語を使用する人はほとんどいなくなった。今は新型コロナウィルスとかCovid-19 が使われる。中国から発生した感染症であることが濃厚に疑われたわけであるが、中国は米国の軍人が持ち込んだウィルスとか何とか言って発生源の責任をごまかした。WHOも病名に特定の地域名称をつけることは望ましくない、と中国の要望に沿った声明を出した。
その後、日本では武漢肺炎は差別を助長するとの公論があり、マスコミから武漢肺炎の文字は消えた。産経新聞出版が刊行した櫻井よしこの著書の広告を西日本新聞に掲載したところ、新聞社内での審査で「武漢肺炎」の語が通らず「●●肺炎」と伏せ字にされた上で広告掲載するという措置が取られた。産経新聞出版はこれに対し、自社のTwitterアカウントで「武漢発を忘れてはいけません」と抗議した。
武漢肺炎が発生し、拡散したのは中国の武漢の病毒研究所から、であることは明白であったので2020年当時は中国を相手取って損害賠償を求める動きがあった。その後、どうなったのだろう。我がブログでは当初より武漢肺炎で通してきたが、多勢に無勢、なんとなく使用回数が減ってきた。それにこの感染症が広くいきわたって、ごく一般的な風邪扱いされるようになってきたから、それにつれて世間の関心も薄れてきたともいえる。
自慢するわけではないが、自分も2回武漢肺炎に感染している。感染源もほぼ特定できている。1回目は女中さんに遅れて数日で彼女と全く同じ症状が出た。2回目は自分と同じ症状が友人に現れ、病院で検査の結果、Covid-19の 陽性反応がでたからだ。さほど熱は出ず、咳と喉の痛みはあったもののテニスはやっていたのだから重篤とは言えない。武漢肺炎なら高齢者はバタバタ死ぬが、Covid-19 ならば風邪薬で完治、それほど心配ない、ということか。
■常軌を逸していた
2020年3月から1年8カ月、日本に滞在していた。孫の顔を見に行く、という野暮用で2週間滞在の予定だったのだがタイに戻ろうとしたら武漢肺炎のせいで帰国便が無くなってしまった。人生思い通りにはいかないものであるがこの感染症騒ぎでも同じ思いをされた人は少なくないのだろう。毎日、感染者、死亡者の数が発表され、いやでも不安を掻きたてられた。ヨソ者はまるで感染媒介者かバイ菌のように扱われ、県外ナンバーの車に「出て行け」と落書きされたりした。自分も四国旅行で「県外の方の入店をお断りします」という張り紙のバーを見た。
当時、「濃厚接触者」という単語がマスコミをにぎわした。武漢肺炎発症者の立ち回り先とか会食した人などが特定され、その中に「濃厚接触者」がいて、と個人情報も何もあったものじゃない、と吃驚したものだ。名前は出ていなかったが地域では、あれはA子ちゃんだ、隣町のB太郎と、と評判になっていたに違いない
こういった武漢肺炎に対する過度の神経質な対応はタイでも同じだったらしく、外人はウィルスをまき散らす恐れがあるから家を出るなと、家に特別な張り紙を貼られた邦人もいる。また村ぐるみで外部からの車侵入を防いだ部落もある。自分が帰国した2022年11月でもマスクは必須、セブンイレブンではマスク無しでは追い出されたし、さもない荒物屋でも自分のマスクが鼻にかかっていないと店のおばさんに注意された。役所や病院では100%マスク着用だった。
大体、マスクでウィルスが防げるかどうかについては医師も疑問視していたが、マスクを着用することによって「私は武漢肺炎と戦っています」という証を示すほどの意味があったのかもしれない。
■自分としてはよかった
もし武漢肺炎の騒ぎがなかったなら、帰国滞在は2週間でそのままタイに戻り、平穏な日を過ごしたに違いない。図らずも1年8カ月の東京暮らしを満喫し、満開の桜を2度も目楽しんだし、お国から10万円、品川区からも3万円頂いた。映画も見たし、本も読んだ。何人かの友人とも再会を果たし、旅にも出たし、山中湖の別荘にも招待された。今思うと、あの時あれを食っておけばよかった、あそこに行っておけばよかった、あの人にも会いたかった、などと思うが、後悔先に立たず、できたことに感謝しながら気持ちよく暮らすほうが性にあっているように思う。
まだ検証作業に入っていないのかもしれないが、あの武漢肺炎騒ぎは何だったのだろうと思う。80万人の感染者が出てそのうち40万人は死ぬ、といった人がいたな、などと断片的に思い出すことはあるが、そもそもの武漢肺炎の責任者、出てこい、と言っても中国が相手ではどうにもならないのが空しい。