今年も慰霊祭に
■親日国
一時的帰国の期間はあるが、ここ15年タイに在住している。タイ人に囲まれて暮らしているわけであるが、これまで人種差別らしき扱いを受けたことがない。受けたことがないどころか、日本人と分かると微笑みをもって接してくれる。タイ経済に貢献もせず、タイ語も満足にしゃべれない異国の年金生活者などタイにとってお荷物かもしれない。本来、タイがロングステイヤーを誘致した目的は裕福な年配者がタイに落としてくれるお金だった。確かに欧米や中国のロングステイヤーの中には億ションと言ってもいい高級コンドミニアムを購入し、ビジネスやファーストクラスでタイと母国を行き来するす人もいる。
でも自分の知る限り、チェンライ在住邦人で超富裕層に属する人はいない。多くは退職者で年金を頼りに暮らしている。下流老人である自分をタイは暖かく迎えてくれる。これはなぜかと言われれば、先人の作ってくれた「日本ブランド」のお蔭だと言ってよい。
外務省・海外在留邦人数調査統計によると、タイ在住の邦人数は令和5年10月時点で7万人ほどである。国別順位では米国、中国、豪州、カナダに次いで5位となっている。それだけ日タイの経済関係が深く、それがタイの親日感情に影響していると言えよう。しかし、歴史上タイに一番多く日本人が在留していた時期は大東亜戦争当時である。1945年8月におけるタイの日本将兵数は約11 万人、ビルマの7万人を含めれば18万人に及ぶ日本将兵がいた。他に民間人も少なくなかったと思われる。一般的に兵士は力を笠に着て横暴であるし、ましてや敗残の兵となれば秩序もなく更に狂暴、凶悪になるだろう。しかし、タイに進駐していた日本軍に対してタイ人は悪い感情を持っていないようだ。
■慰霊祭会場
自分が日本人というだけで差別も受けず、安穏に暮らせるのは戦後の良好な経済関係を構築してきた企業戦士のお蔭もさることながら、タイに在留した本当の戦士がタイ人に指弾を受けるような振る舞いをしなかったお蔭でもある。インパール作戦の基地であったチェンマイは戦没将兵ゆかりの地があり、毎年慰霊祭が開催されている。自分も英霊に感謝と追悼の気持ちを表すために慰霊祭に参加している。
慰霊祭は8月15日にムーンサーン寺とバンガード高校の二会場で開催される。両地とも野戦病院があり、ビルマから逃げ戻った多くの将兵が没した場所だ
昨年はバンガード会場の慰霊祭に参列したが、今年はムーンサーン会場へ。ムーンサーン会場では日本の武道館で開催される全国戦没者追悼式が大型テレビで同時中継される。1年に1回だが君が代を斉唱する機会でもある。天皇皇后両陛下、岸田首相並びに武道館の遺族と共に黙祷を捧げた。
ムーンサーン会場では5人の僧侶による読経、供養があった。この慰霊祭は日本将兵のみならず、タイ人軍属等の供養も併せて行っている。タイは英米に宣戦布告をした我が同盟国だったのでバンコクやチェンマイはB29の爆撃を受けている。
■交流の歴史
ムーンサーン寺の慰霊碑後方にある建物にはクンユアムの警察署長、チューチャイ氏の収集した日本兵の遺品や獣医将校だった井上朝義氏が撮影した終戦前後の写真が展示されている。兵士と村の娘さんたちの集合写真ひとつとっても兵士と村人の良好な関係が見て取れる。
今回はムーンサーン寺代表、日本なら檀家総代ともいうべきサニットプンレーン氏から追悼の辞があった。
敗残兵を見た村人は幽霊(ピー)が出たと思いました。髪も髭もボーボー、服はボロボロ、腕からはウジが零れ落ちていました。でも村人はそう言った兵隊さんを家に泊め、看病しました。兵隊さんは野菜を植え、豚を飼い、村人を助けてくれました。怪我や病気の村人を軍医さんは分け隔てなく治療してくれた。戦争は悲惨です、でもこういった日本とタイの心温まる交流があったこと、それは今の日タイ関係に繋がっているのではないでしょうか。毎日、慰霊碑の周りを近所の人たちが掃除しています。みんな、父母、祖父母から日本の兵隊さんの話を聞いて育った人ばかりです。
彼の言葉が終わると会場から期せずして拍手が湧き起こった。
会場には年配者ばかりでなく、かなり若い人の姿も見受けられた。慰霊祭は国費の援助はなく、全くのボランティアで行われている。慰霊碑の保持、修繕、清掃もタイ人と協力しながら行っている。多分この無償の活動は若い世代にも引き継がれるのではないだろうか。
雨季の盛り、雨が心配された。でも9時半の開会から11時の閉会まで天気はもった。そして閉会を待つように昼前に雨が降り始めた。これは例年通りという。