チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

長旅の疲れ

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花の名前はわからない

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 池上本門寺

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本門寺の五重塔

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本門寺墓地内にある力道山の墓

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11月だったので菊の展示会があった

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タイの蘭に比べ、表現にセンスが感じられる



長旅の疲れ

■帰宅しております
知覧の話を書いているが、九州旅行は2週間で切り上げて、今は東京の自宅にいる。旅に出るとその見聞を帰宅後にだらだら書き続ける。チェンライにいた頃も街で出会った知人に、あれ、旅行中だったんじゃないですか?などと不審がられたものだ。

今回の旅には特別定額給付金で購入したPCを持参した。リュックに入るし、それほど重くない。携帯があればもうPCもデジカメもいらないよ、と娘はいうのだが、指の動きと視力が携帯についていけない。文字ボタンを押すと隣のボタンも一緒に押してしまうし、1行の文章に5分くらいかかる。原稿作成は自分の能力ではまず無理だ。

動画を見るにも携帯はWiFiの電波が来ていなければ使えない。ネット環境問題なし、という旅館でも、電波が弱くて途中で切れたりする。ラオスの1泊千円のGHでさえ、サクサクとつながったのに、妙に日本は遅れているところがある。九州旅行は、前半は鹿児島、宮崎、後半は娘夫婦のいる佐世保で過ごした。佐世保では原稿を1本書いたし、メールも自宅同様に送受信できた。要するに外出を別にすれば、やっていることは東京にいるときと変わらなかった。

■すいていた
鹿児島から宮崎へはバスを利用。大型バスであるが数人しか乗っていなかった。途中で多少の乗降客があったが、終点の宮崎で降りたのは自分一人だった。実は鹿児島でも宮崎でも1泊ずつ延泊したのであるが、手続きはスムースで同じ部屋に滞在できた。Go toとはいえ、旅行者は少ないようだ。

宮崎から長崎県までは九州を横切ったほうが近いのであるが、この路線は休止になっていた。それで宮崎から福岡まで5時間バスに乗り、福岡で佐世保行きのバスに乗り換えて2時間半、合計7時間半の旅。バンコクと成田は空路で6時間だから座席に座っている時間は宮崎-佐世保のほうが長い。若い時は車窓を眺めて移り行く風景を楽しんだものだが、今は移動だけで疲労困憊する。トシである。

知覧の特攻平和会館を訪問し、特攻隊員の崇高な精神に泣いた、と書いたが義務と責任を果たしたのは隊員だけではない。整備兵も知覧高女の女学生も富屋食堂の鳥濱トメさんも、そして全国民がそれぞれの立場で義務と責任を果たしていた。その一途さに感涙したのではなかったか。

戦時中、慶応義塾の塾長であった小泉信三先生は戦地に赴く学生に向かって「百年、兵を養うはまさにこの時の為であった」と訓示した。戦後、彼のもとへ米軍将校がやってきて「お前は戦争協力者だ」と詰問した。戦犯として拘束しようとしたのだろう。先生は「私は戦争には反対であった。しかしいったん戦争となったら全力を挙げて国に協力する、それが国民の責務ではないか」。米軍将校は黙って先生の許を辞したという。

国難に挑む
75年前の、80年前の、また100年前の日本の状況がどうであったかを知るには当時の新聞を読むといいと教えられた。大きな図書館には新聞の縮刷版がある。戦前から戦中、戦後にかけての新聞を読み耽ったことがある。

戦時中や終戦直後は毎日新聞が発刊されていたわけではないし、ページ数も少ないから終戦前後2,3年分なら半日もかからずに読めると思う。軍部が、新聞が悪かった、というのは後付けの話で、行間ににじむ、国難に立ち向かう当時の日本国民の一途さ、誠実さに涙が出たものだ。

平和会館の展示室には天皇陛下終戦詔書と8月15日の新聞が展示されている。詔書には「担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし」とあり、それと呼応するように新聞1面に「さあ、再建に取り組もう」という見出しが見える。陛下はもとより、新聞、国民も一つであったことが偲ばれる。

■守る気概はあるのか
安倍前総理は、2012年10月25日に、知覧での街頭演説で「今、日本の美しい海や、領土、領海は脅かされようとしているんです。今、私は特攻隊記念館、短い時間ではありますが見学させていただきました。少年たちが、青年たちが、命を懸けて守ろうとしたこの日本を私たちは守っていく、その責任があるんです」と話している。

だが、もし日本漁船が人質に取られ、公然と尖閣の領土を解放軍が侵すとき、中国公船を撃沈せよ、と命令できる政治家はいるだろうか。国を守るのは自衛隊でも米軍でもなく我々国民の一人一人ではないのか。今の日本の体たらくは英霊に対し申し訳ないのでは、とつい考えこんでしまう。疲れはバスの長旅のせいだけではない。

 

知覧で大泣き2

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知覧特攻平和会館、英語のピースミュージアムには違和感がある。両側は桜並木

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海底から引き揚げられた零戦

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特攻前夜を過ごした宿舎

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知覧高女の「なでしこ隊」が隊員の世話をした

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富屋食堂

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この映画は見た


知覧で大泣き2


近年、百田尚樹さんのベストセラー、「永遠の0」の効果もあって知覧特攻平和会館(Chiran Peace Museum)の入場者は増加しているそうだ。会館の前身の知覧特攻遺品館は1975年に開設。有料となった翌年4月から入館者数を数え始めた。そして今年2020年6月に累計入館者数が2千万人を越えたという。修学旅行で訪れる中高生も多い。

入場料は500円、入場券と共に三つ折りのパンフレットを渡される。
パンフの初めにこう記されている。

「知覧が特攻隊の出撃基地であったところから、沖縄戦の特攻作戦で戦死された隊員1,036名の当時の真の姿・遺品・記録等を後世に残し、この史実を多くの方に知っていただき、特攻をとおして戦争のむなしさ、平和の大切さ、有難さ、命の尊さを訴え、後世に正しく語り継ぎ恒久の平和を祈念することが基地のあった住民の責務であろうと、特攻基地の一角に知覧特攻平和会館を建設しました」。

戦争のむなしさ、平和の大切さ、か。これは誰もが思うことであって、なにもこの記念館に来て初めて分かるというものではない。だが訪問者の感想もパンフの内容とほぼ同じである。

神風特攻隊の歴史を知ることは今の私たちを見つめなおすきっかけにもなります。
ぜひ知覧に訪れて、過去を学び今の幸せを知り未来に平和を祈りましょう。

知覧特攻平和会館で展示された遺書や手紙を読めば、誰でも平和のありがたさと戦争の愚かさがわかると思います。

戦争を知らない子どもたち」であった私たちの子どもや孫は、さらに戦争を知りません。ずっと、平和な時代が続きますように。

更には私たちの「平和ボケ」がずっと続きますように、という感想もあった。

出撃した英霊にしても戦争のむなしさ、命の尊さを感じていなかったわけではない。俺が敵艦を轟沈させれば敵国の5千の母が泣くだろう、と書き残した隊員もいる。彼らは父母、妹、弟を守るため、日本の敗戦を1日だけでも遅らせるために与えられた義務と責任を立派に果たしたのだ。自分が大泣きしたのは命を捧げたその崇高な日本人の雄々しさに感動したからだ。

■引き継がれる精神
葉室麟の小説に「刀伊入寇」がある。寛仁3年(1019年)に、女真族壱岐対馬を襲い、更に筑前に侵攻した。藤原道長の甥、太宰権帥であった藤原隆家が九州武士団を率いて刀伊撃退に成功する。
刀伊と戦っても朝廷からの恩賞はでないかも、と動揺する武士団に向かって隆家は言う。「外敵が襲ってきた時、戦うのは、我が土地を、妻子や父母を守るためである。それはお前たちが最も大切にいたしているものではないか。それともお前たちは命を惜しんで、大切なものを守るために戦うと言わぬのか。それでも武士か」。

東日本大震災の起きた年の3月17日、菅(かん)首相から陸上自衛隊第1ヘリコプター団にヘリで、水蒸気爆発を起こした福島第1原発3号機に注水せよ、という無謀な命令が出された。放射線量は高く、放水と同時に再爆発が起こることも考えられた。ヘリから水が投下される模様はテレビ中継された。それを見た各国の駐在武官は、日本には国民を守るためなら命の危険を顧みず責任と義務を果たす武人がいる、と感じ入ったという。

東京消防庁に高圧放水を命じた石原慎太郎都知事は、福島から無事帰京した隊員の手を取り、ありがとうを繰り返しながら男泣きに泣いた。隊員にもしものことがあった場合、都知事は部下を死地に赴かせた責任者として自死を選んだのではないか。

■日本人の血
平安時代の人口は約500万、縄文時代には全国で3万人に減った時期がある。3万が今の1億2千万人になったのだから、我々の血には英霊や刀伊、蒙古と戦った人々と同じ血が流れている。「私は日本人です」と、どこの国にも胸を張って言える、日本人の誇りを再認識する場所が知覧特攻平和会館ではないだろうか。

それは外国人のほうが熟知している。経済評論家日下公人さんはこう言っている。
「私のささやかな経験だけど、特攻隊のおかげと思ったことはいくらもある。銀行員と取引していても、向こうの人間に『冗談言うな!』と強く言うと、向こうはピリッとする。私にピリッとするはずがない。やっぱり特攻隊のおかげだ。特攻隊のことを知っているから、どこかで日本人のことを恐れている。靖国神社にお参りしなきゃいかんなって思った」

蛇足ながら、祈るだけで国を守ることが出来るのか、会館を訪問した人々には祈りの先の方策も併せて考えて頂きたいと思う。

 

 

 

知覧で大泣き

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ホタルの富屋食堂

 

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知覧特攻平和会館

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ロビーの零戦

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会館外の銅像

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ネットから借用、撮影禁止なので内部の写真はなし。

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同上、出撃直前の写真

 

知覧で大泣き

■九州へ
旅に出るときはブログが休載とならないよう原稿を書き貯める。でも凡人の頑張りには限界があるから、昔、書いた原稿の再録で凌ぐことになる。勘のいい方なら、再録ブログを見るだけで、ああ、どっかに行っているなと気づかれることだろう。確かに11月の末から九州に来ている。鹿児島に3泊、宮崎に2泊、そのあと娘夫婦の住む佐世保にやってきて孫の世話で日を過ごしている。

先月、鹿児島在住のU夫妻から遊びに来ないかとお誘いを受けた。ご夫妻はここ10年ほど乾季となるとチェンライにやってきて1、2カ月のテニス・ロングステイを楽しまれている。今の季節、本来であればご夫妻とそのテニス仲間がチェンライのコートに集結しているはずである。だが例の感染症のため国際便は運休、タイは実質的に鎖国状態だ。そこで今年の再会はチェンライではなく、鹿児島で、ということになった。ご主人は「チェンライでテニス」といブログをアップされている。お互い「看板に偽りあり」のブログを書いている。

チェンライでタイ人と積極的に交流を重ねるご夫妻は自分よりタイ人の知己が多い。土曜市やバザールを歩くとあちこちから声がかかる。日本からテニス仲間を呼び込んでいるし、日泰友好、観光促進にかなり貢献していると思う。勲章はムリにしても表彰状くらい貰ってもおかしくはない。テニス仲間の奥さんが「日本人で嫌だなあと思う人は一人もいませんでした」とオランダに帰国する際にしみじみ述懐していた。これもU夫妻効果だろう。

■行かなければならない場所
Uさんに何処に行きたい?と聞かれてまず答えたのは特攻記念館だった。正式名称は「知覧特攻平和会館」という。知覧は大東亜戦争末期、本土最南端の帝国陸軍特攻基地となり、20歳前後の隊員が家族、国の将来を思いながら出撃していった。その基地跡に陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等が展示されている。映画「ホタル」で有名になった冨屋食堂もあると聞いていた。

鹿児島市から南九州市知覧町までは40キロ、1時間ほどのドライブとなった。ご夫妻は何度か平和会館を訪れている。まず、特攻の母、鳥浜トメ資料館、ホタル館を見学する。映画「ホタル」の特攻秘話の舞台となった富屋食堂を完全復元したものという。
展示資料は特攻隊員の遺品、遺影並びに遺書が展示されていた。館内は自分一人だけだった。若者の遺書を読むにつれ目頭が熱くなる。見続けることがつらくて、2階の展示は殆ど見ずに車に戻った。

早めの昼食を摂って、知覧特攻平和会館に向かった。いつもは団体旅行のバスで一杯という駐車場は時節柄、空いてはいたが県外車も含め、通常の2,3割の訪問者がいるようだった。

■遺書、遺影に涙
まずロビーがあり、その右手に零式戦闘機が展示されている。長らく海底にあったので、ほぼ朽ち果てている。館内の写真撮影はここまで。館内は出撃順に隊員の遺影、遺書が展示されている。平均21歳ほどの若者だったのに、どうして、と思うほど皆達筆だ。「悪筆のさほど困らぬ職を持ち」の人生を送ってきたので、自分の下手な字が恥ずかしくなる。一つ一つ、隊員の遺書を読むうちに涙が止まらなくなってきた。

当時23歳の穴沢大尉が特攻の当日に大学時代に将来を約束した婚約者に書いた手紙。

「二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。
希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”ということが実現して了ったのである。
今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。
問題は今後にあるのだから。
常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。
然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
あなたの幸を希う以外に何物もない。
徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。
勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。 あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
穴沢は現実の世界にはもう存在しない。
智恵子。
会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。 自分も負けずに朗らかに笑って往く。」

会いたい、話したい、無性に。いい年をしてと思っても涙が止まらない。嗚咽が漏れそうになる。
三島由紀夫はかつて特攻隊員の遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と号泣したことがある。
(続く)

下座から見えること

 

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チェンライ花祭りから2020年1月

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同上、タイ人はどういうわけかチューリップが好き

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期間中何度も鉢を交換する

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ユリ

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やはり蘭



下座から見えること

旅行中につき2013年10月にアップしたブログを再録します。

■ 骨折の成果
2012年の12月13日に左足首を骨折した。テニスでボールを追っているとき、スリップし、完全に滑りきらない足首に全体重がかかり、敢え無く足の裏が90度外側を向いてしまった。
イテテ、これじゃしばらくテニスができねーじゃねーか。

膝下から足の先まで石膏で固められた。入院2日目から松葉杖を使っての歩行訓練、ギプスが外れるまで1月くらいかかったのだが、松葉杖歩行はかなり上手くなった。石膏で左足が重いのだが、その足を振り子のように使ってリズムカルに歩く。自分の部屋は2階なので、階段も松葉杖を使って上り下りする。始めはひっくり返りそうになって、見守る女中さんを驚愕させたが、階段も「ポッカ・ペック(タイ語でビッコの意味)」と掛け声をかけながら、健常者と同じくらいの速度で上り下りできるようになった。

骨折は必ず治る病気であるから、闘病生活も明るい。ストックホルム症候群ではないが、松葉杖にも愛情が湧いてきて、別れるのが寂しいと思うことさえあった。

整形外科に行くと,同じように足を折った人、手を首から吊っている人、これだけ骨折者が居るのかと思うくらいの肢体不自由者が集結している。中には手足が無い人も居る。自分は治るからいいけれど、身体障害の人のことを思うと「不幸中の幸いだった。ゆっくり休む機会が与えられて良かった」などと思うのが傲慢に思えた。

何事も経験してみなければ理解できないという。外出もママならず、シャワーを浴びるにも不自由を感じていたときに、これが生涯続く人の苦労を少しは思った。電車で足の不自由な人が前に立ったら、必ず席を譲ろう、と思う程度には殊勝な気持ちになったものだ。

■健康とは嫌なもの
何かに健康な人とは友達になるな、と書いてあったような気がする。今は本が手元に無くてもネットで調べることが出来る。徒然草117段に「友とするにわろき者七つあり」とあってその3番目に「病なく身つよき人」がでている。
健康な人は病弱な人や障害者には同情が無い、と言うか同情が薄い人が多いような気がする。
なにっ、風邪で練習休みたいだとぉ、それは貴様の精神がたるんどるからだ、走れば治る、などという教師や上級生は今でもいるだろう。自分にも水泳部時代、「泳げば治る」といっていた先輩がいた。

でもその先輩だって社会の荒波にもまれ、今は立派な高齢者、血圧や血糖値が高くなっているはずだから、なに、血圧180だとぉ、泳げば治る、などと言ってはいないだろう。そんなことを言っても世の中通るのは前の日本柔道連盟理事会くらいなものだ。

健康な人は自分の体力が通常だと思い、またその体力が続くと過信している。自分と同じように他の人が動けないのは、そう出来ない人に問題があると断じて、弱い人を非難する。

体力、能力の劣るものは駄目人間だ、差別されても仕方ない。その考え方を極端に推し進め、社会の無駄の排除に邁進したのがナチスであったということはすでに書いた。

モーム箴言
90まで生きた英国の作家、サマセット・モームは「20代には20代の楽しみが、50代には50代の楽しみが、70代には70代の楽しみがそれぞれある」といった意味のことを書いている。この言葉に初めて触れたのは学生の頃だった。
生意気だったから、60、70の爺さんになっていつも不機嫌な顔して、あんなんで生きている価値あんのか、などと思っていた。20歳の貧困な想像力では「年を取っての楽しみ」に考えが及ばなかったのだ。

自分が70のジジイになってみるとモーム先生は実にいいことを仰っている、と分かる。そうです。人は年に応じて楽しみがある。体力がある、体力が残っている。体力が無くても考えることが出来る。

人に指図する身分ではなく、高齢者で無職という世間から一歩引いた地位にいると、現役のときには分からなかったことが、何だ、そうなのか、と合点がいくことがあるし、社会的に恵まれない人や健康でない人たちに親しみを感じるようになる。この社会がいろいろな人で構成されていて、それで社会全体がうまく成り立っているということに気づくからだ。骨折してみて足の不自由な人の気持ちが少し分かったように、年をとってみて体力の衰えた人に寄り添った考えが持てるようになったと思う。

そういえば兼好法師は「友にするにわろきもの」に健康な人と並んで「若き人」を挙げている。
もし、今の自分が、20歳の時の自分に出会ったら、多分友達にはならないだろう。

 

武蔵野陵参拝

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4つの陵、それほど広くない。ほぼ隣り合わせ

 

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できればもう少し達筆の人に書いてほしかった

 

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参道

 

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陵全景、右に石柱あり。

 

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ちょっと写し方が悪いが。字は悪くない。

 

武蔵野陵参拝

■皇室をめぐる質問
ネットを利用した知識共有プラットフォームサービス、クオーラに時折、皇室についての質問が寄せられる。例えば、「なぜ天皇を尊敬しなければならないのですか?」、「女系天皇女性天皇を認めるべきだと思いますか?」、「天皇/皇族の制度っていらなくないですか?階級制度なので廃止すべきだし、維持費も馬鹿にならない。庶民からしたら馬鹿馬鹿しいですよほんと。」など。

まともな回答もあるが、結構、世の中、女性天皇女系天皇の区別がつかず、男女平等の世の中なのだから女系天皇は当たり前、という意見を持つ人が多い。ある世論調査によると女系天皇賛成という人の割合は70%を越えている。どうして父系を守るのかについては長くなるので書かない。日本には不敬罪はないから、皇室に対し,どのような意見を開陳しようと自由だ。この年になると、昔から続いていることは昔通りにやるのがいい、という考えに傾く。それに今の、例えば平等、男女同権などという、戦後に流行り始めた浅はかな思想で二千六百有余年、はっきりしているだけでも千数百年続いてきた慣習をあっさり覆していいのか。それで先祖や子孫に責任を持てるのか。

憲法を守れ、と言っている人はまず、憲法第一条、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を思い出してほしい。日本の象徴、日本国民の総意に基づくのであれば、敬意を払うのは当然のことであるし、天皇家は古来より日本の繁栄、国民の幸せを祈り続けてきた祭主である。日本を大事に思う心があれば、当然それは皇室を大切に思う心に通じる。

■武蔵陵
陵とは皇帝、天皇、皇后の墓所のことを言う。明治神宮明治天皇のお墓があると思っている人は少なくないが、明治天皇、並びに皇后・昭憲皇太后墓所京都市伏見区桃山にあって、伏見桃山陵、東陵と呼ばれている。そういえば昭和の御代に生まれているけれど、昭和天皇墓所に詣でたことはない。確か八王子あたり、ツーリングを兼ねて行ってみるか。
大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后墓所は東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地にある。武蔵陵は「むさしののみささぎ」と読むそうだ。品川区の我が家から約60キロ。
八王子市内を過ぎて20号線は銀杏並木の続く道となる。その並木道の途中に武蔵野陵入り口の案内が見える。

スクータを停め、陵に続く玉砂利の道を歩く。誰も参拝客はいない。静謐さに気持ちが引き締まる。陵は一段と高いところにあった。上円下方墳、27メートルの大きさというが下から見上げる形なので小ぶりに感じる。昭和天皇陵の隣には香淳皇后の陵があった。同じように大正天皇の陵もある。それぞれ1名、計2名の警官が陵を警護していた。4つの陵を回るには15分もあれば十分だろう。決して広くはないが質素な中にも厳粛な佇まいがある。

■墓を発いて財宝略奪
清国の西太后は1908年に亡くなり、故宮から120キロ離れた東清陵に葬られた。しかし陵は1928年、国民党の兵士によって発(あば)かれる。遺体を覆っていた豪華な衣服は総て剥ぎ取られ、すっぽんぽんにされたと記録にはある。兵士は銃剣でこじ開けた西太后の口から含み珠(真珠、翡翠)を取り出した。この含み珠は宋美齢のスリッパの飾りに使われた。馬車で120台分あったと言われる財宝は、今、台北故宮博物院で見ることが出来る。宋美齢はこの財宝の一部をルーズベルトはじめ米国の要人に「ワイロ」として贈っている。中国から米国の政治家に賄賂が送られ、それで国の政治が捻じ曲げられる、これは昨日、今日始まったことではない。それで日本は敗戦の憂き目にあって、「平和憲法」を押し付けられた。一度負けただけで憲法改正もできず、国を守る気概さえ失ったかのように見える。

台湾がやられれば、次は日本。命惜しさに国を売り渡す輩が跋扈すれば、中共の解放軍が日本に進駐する。米国の進駐軍は流石にやらなかったが、間違いなく解放軍兵士は、天皇陵を発くだろう。質素な陵ですから、お宝なんてありませんよ、などといっても無駄だ。ご遺体は西太后乾隆帝と同じように辱められる。皇室などなくてもいいのでは、という人は解放軍兵士に力を貸していると言っても過言ではない。習近平とかバイデンのような品のない人物がやってきて、これからワシが天皇になるけんね、と言っても納得するのだろうか。

日本国をどうしたいのか。皇室の在り方は国の将来に密接に関係している。武蔵野陵を参拝しながら暗澹とした気分になった。

 

バンク・カレッジ入学試験

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今年1月のチェンライ・フラワーフェスティバルから 

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同上

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同上

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同上

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同上

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同上 やはり蘭はいいですね

 

バンク・カレッジ入学試験 

2006年8月にアップした「入学試験」を加筆訂正の上再録します。

 ■競争率は1.7

通訳のベク君が「明日、カレッジの入学試験です。学校へ来ますか」と言う。試験監督見習いとして参加することにした。

当日、朝7時半に学校についてみると、車がたくさん駐車しており、父兄に見送られながら受験生が次々に校門をくぐって行く。校庭に受験番号、試験教室名を書いたプラカードを持った先生が立っていて、そこに受験生が列を作って並んでいる。今年の入学定員700名に対して受験生は1200名とのことである。

順次揃ったところから教師に先導されて教室に移動する。教室は原則30名ずつ入る。机の上にはA4大のボール紙が置かれている。下敷きではなく、計算用紙、メモ用紙を兼ねている紙だ。

8時前に教室に入るが試験は9時からという。1時間以上待たされるのか、と思っていたら、封印された袋に入った試験用紙を携えた先生が入ってきて、受験生に用紙を配り始めた。配り終わったら即、試験開始だ。8時22分くらいだったが黒板には8時25分から10時25分までと書いてある。全校一斉にベルで開始時間を知らせるのではなく、問題を配り終わったらそれから2時間という形で各教室、五月雨式に試験が始まる。

 

■複数の問題用紙

試験科目は数学と国語の2科目。それぞれ25問出題され、5つの答えからひとつを選ぶマークシート方式のテストだ。受験票の他には青のボールペンだけが持ち込める。ボールペンでマークシートを塗りつぶすわけだから、一度塗ってしまったら訂正はきかない。だからボール紙にとりあえず答えを書いている生徒が多い。さすがウズベクと思ったのは前後左右の受験生がなにやらこそこそ話し始めることである。実はカンニングを防ぐため、テスト問題は各自違ったものが配られている。だから話をしても自分の問題の答えがわかるわけではないが、「なんか私の問題難しいわ。あなたのほうはどう?」くらいのノリで話している。日本だったらすぐ監督は注意するところだがこちらは黙認だ。

問題用紙を覗き込んでみると数学では、たとえば64の8%はいくつですか、という問題があって、AからEまで数字が並んでいる。(5.12が正解)こんな簡単なものばかりではなく、ルートの分数計算、三角関数因数分解、果てはロガリズムの対数計算まであって、自分だったらとても合格点は取れないと思った。

かなりの計算をしないと答えは出ないはずなのに、ボール紙を使って問題を解いている受験生は半分くらいだ。あとはじっと問題を眺めて、やおら解答用紙の適当なところを塗りつぶす。

 一番ひどいと思ったのは最前列に座っていた受験生だ。問題用紙を見ずに、解答用紙の1番がA、2番がB、3番がC、と言う具合に塗りつぶし、Eまで来るとD、Cと戻っていく。だから解答用紙はきれいなジグザグ模様になっている。ふざけている、こいつは何のために試験を受けに来ているんだろう。ベク君に後で聞いてみたところ、「もう、受かることが判っているので、形だけ試験を受けに来ているのでしょう」とのこと。

どうやら事前に8割くらいの生徒の合格が事前に決まっているらしい。相場は数百ドルというところだ。お父さんが政府の役人という生徒も優先される。マークシート方式の解答用紙はパソコンで処理、採点されるので結果は1日で判明するが合格発表は10日後という。その間に親と学校幹部とのネゴが活発に行われる。金もない、コネもないという受験生はどうするか。それはトップ10%に入れるよう必死に勉強しなければならない。 

 

■電話をかけまくる受験生

金もコネも、更に学力もない女子受験生が一人いた。試験終了前30分になると、答案用紙、問題用紙を試験監督に渡して退室していいので、皆、次から次へ退室していく。しかしその生徒は、全員いなくなったあと、一人教室に残って、携帯で問題を読み上げて誰かと相談している。他の受験生がいるときから電話していたが、周りが騒ぐ様子もなかった。10時25分の試験終了時間が過ぎても、「先生、少し待ってください」と言って電話をしたり、マークシートを塗りつぶしたり、必死になっている。試験監督のベクが怒って、用紙を取り上げるか、と思ったら後ろから「正解はBではないのか」などと言っている。一体全体これはどうなっているのか?

結局、彼女が用紙を提出したのはリミットを30分以上過ぎた11時だった。解答用紙を袋に入れながら、ベク君に「あれはねえだろ」となじったら、返答は「困っている子を助けるのは当たり前のことでしょう」。一瞬、自分が間違っているのか、と思った。

 

尚、哀願するように自分を見ていた彼女と新学期に再会、無事合格したようだ。

 

自分の時間

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東照宮表参道

 

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東照宮五重塔

 

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仁王像

 

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陽明門、人が絶えない

 

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家康公墓所、鋳抜門 扉以外の柱、梁などが一つの鋳型で造られている。

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神橋、日光社寺の原点、恋人の聖地とのこと


 

自分の時間

 

■林住期?ムリムリ
フランス映画「男と女、人生最良の日々」の感想文を書いて、「今が自分にとって人生最良の日々ではないか」と締めくくったけれども半分以上本気である。

古代インドでは四住期と言って、人生の時期を四つに区分している。これは何度か書いたことがあるが繰り返してみる。

「学生期」 0から24歳 文字通り、生まれてから一人前になるまでの勉強し成長する時期。

「家住期」 25歳から49歳  家に住む。結婚して家庭を作り、社会や家族のために生きる時期。

「林住期」 50歳から75歳  林に一人で住む。家族や社会から離れて人里離れたところに暮らして、本来やりたかったことをする。

「遊行期」 75歳から90歳 この世の一切の執着を捨てて、死ぬ準備に入る。

五木寛之氏によると林住期が人生の黄金時代なのだそうだ。今の若い人に言わせれば50代なんて一番子供に手がかかる時代だし、会社でも責任ある仕事に追いまくられている。社会の第一線だ。オレ、これから一人で暮らすから、と言ってもカミさんのお許しが出ないかもしれない。
65歳の定年後に林住期を迎えたとしても暮らしていくには先立つものが必要だ。民間調査機関ディップ総合研究所の調査によると、これから定年を迎える55歳~64歳の人に定年後に働きたいと思うか尋ねたところ、57.8%が定年後も働きたいと回答したという。働く目的は収入が第一だが、「働くことが好き」、「健康維持」という理由も目立つ。

■責任、義務を逃れて
友人に「お前も働け」と言われてビックリした。お国がもう働かなくていいんだよ、と言ってくれているのにどうして? それに働くのはイヤ。

日本人男性の健康年齢を過ぎているし、残されている時間は限られている。可処分所得は口に糊する程であるが、可処分時間は豊富、この満足感を60歳以降持ち続けている。これでも若い時は真面目に働いていたんだからもう勘弁してよ。

ニーチェを持ち出すのは気が引けるが、彼はとにかく「自分の時間を確保せよ」と言っている。「あらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人に分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のために持っていないものは奴隷であるから。そのほかの点では、例え彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。」(人間的、あまりにも人間的)

考えてみると自分もいろいろな役割を好むと好まざるにかかわらず、演じてきた。演じるというより完全に役に嵌まり込んでいたように思う。父親としての役割、夫としての役割、息子としての役割、営業マンとしての役割、シンクタンクの研究員やら外人教師の役割など・・・、けいこ不足を幕は待たない、といった恋のからくり、夢芝居を演じたこともないとは言わない。奴隷などとシニカルな考え方にはくみしないが、笑ったり、怒ったり、嘆いたり、悩んだり、と喜怒哀楽さまざまの毎日を送っていた。一日の三分の二はその時々の感情に流される時間であった。忙しさに紛れて、その感情の源をじっくり考える時間に乏しかったかもしれない。

今は働かなくてもタツキの道は立っているし、子供たちは独立、妻は去り、母は一昨年大往生、数々のしがらみが自分から消えて去っている。夜更かし、朝寝は誰にも邪魔されない。「起きてこないから死んでるんじゃないかと思った」などと起こしに来る人もいない。気楽なものだ。「きょういく(今日行くところがある)、きょうよう(今日用がある)」のない生活、今、自分は自由人と言っていいのではないか。

■今が一番シャーワセ
ヴィクトル・ユーゴーは正確には「人生最良の日々はまだ来ていない日々である」と言っている。今はともかく未来を信ぜよか。タイの坊さんにタンブンを積めば来世はよくなるから、と言われている感じがしないでもない。

朝から一杯やって1日中、ほろ酔いの生活も悪くないかもしれない。飲みすぎはよくないわ、と言ってくれる人はいないから、放哉や山頭火の様にアル中になってしまう恐れはある。
兄は、精神的に繊細な人がアル中になる傾向がある、だからお前は大丈夫だ、というが、放哉や山頭火ほど量が飲めないと思うし、酒で忘れたいほどの鬱屈もない。

これから来る我が「人生最良の日々」はすべての記憶が無くなる恍惚の日々かもしれない。それもそれで悪くはないと思う。世のしがらみから離れ、本や映画で時間を過ごし、時にはぼんやりと考えごとにふける。そして「今が一番シャーワセ」と呟いてみる。あの百歳姉妹も最後まで責任と義務を果たしていたなあ、それに引き換え自分は・・・・やはりシャーワセか。