チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

長旅の疲れ

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花の名前はわからない

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 池上本門寺

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本門寺の五重塔

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本門寺墓地内にある力道山の墓

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11月だったので菊の展示会があった

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タイの蘭に比べ、表現にセンスが感じられる



長旅の疲れ

■帰宅しております
知覧の話を書いているが、九州旅行は2週間で切り上げて、今は東京の自宅にいる。旅に出るとその見聞を帰宅後にだらだら書き続ける。チェンライにいた頃も街で出会った知人に、あれ、旅行中だったんじゃないですか?などと不審がられたものだ。

今回の旅には特別定額給付金で購入したPCを持参した。リュックに入るし、それほど重くない。携帯があればもうPCもデジカメもいらないよ、と娘はいうのだが、指の動きと視力が携帯についていけない。文字ボタンを押すと隣のボタンも一緒に押してしまうし、1行の文章に5分くらいかかる。原稿作成は自分の能力ではまず無理だ。

動画を見るにも携帯はWiFiの電波が来ていなければ使えない。ネット環境問題なし、という旅館でも、電波が弱くて途中で切れたりする。ラオスの1泊千円のGHでさえ、サクサクとつながったのに、妙に日本は遅れているところがある。九州旅行は、前半は鹿児島、宮崎、後半は娘夫婦のいる佐世保で過ごした。佐世保では原稿を1本書いたし、メールも自宅同様に送受信できた。要するに外出を別にすれば、やっていることは東京にいるときと変わらなかった。

■すいていた
鹿児島から宮崎へはバスを利用。大型バスであるが数人しか乗っていなかった。途中で多少の乗降客があったが、終点の宮崎で降りたのは自分一人だった。実は鹿児島でも宮崎でも1泊ずつ延泊したのであるが、手続きはスムースで同じ部屋に滞在できた。Go toとはいえ、旅行者は少ないようだ。

宮崎から長崎県までは九州を横切ったほうが近いのであるが、この路線は休止になっていた。それで宮崎から福岡まで5時間バスに乗り、福岡で佐世保行きのバスに乗り換えて2時間半、合計7時間半の旅。バンコクと成田は空路で6時間だから座席に座っている時間は宮崎-佐世保のほうが長い。若い時は車窓を眺めて移り行く風景を楽しんだものだが、今は移動だけで疲労困憊する。トシである。

知覧の特攻平和会館を訪問し、特攻隊員の崇高な精神に泣いた、と書いたが義務と責任を果たしたのは隊員だけではない。整備兵も知覧高女の女学生も富屋食堂の鳥濱トメさんも、そして全国民がそれぞれの立場で義務と責任を果たしていた。その一途さに感涙したのではなかったか。

戦時中、慶応義塾の塾長であった小泉信三先生は戦地に赴く学生に向かって「百年、兵を養うはまさにこの時の為であった」と訓示した。戦後、彼のもとへ米軍将校がやってきて「お前は戦争協力者だ」と詰問した。戦犯として拘束しようとしたのだろう。先生は「私は戦争には反対であった。しかしいったん戦争となったら全力を挙げて国に協力する、それが国民の責務ではないか」。米軍将校は黙って先生の許を辞したという。

国難に挑む
75年前の、80年前の、また100年前の日本の状況がどうであったかを知るには当時の新聞を読むといいと教えられた。大きな図書館には新聞の縮刷版がある。戦前から戦中、戦後にかけての新聞を読み耽ったことがある。

戦時中や終戦直後は毎日新聞が発刊されていたわけではないし、ページ数も少ないから終戦前後2,3年分なら半日もかからずに読めると思う。軍部が、新聞が悪かった、というのは後付けの話で、行間ににじむ、国難に立ち向かう当時の日本国民の一途さ、誠実さに涙が出たものだ。

平和会館の展示室には天皇陛下終戦詔書と8月15日の新聞が展示されている。詔書には「担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし」とあり、それと呼応するように新聞1面に「さあ、再建に取り組もう」という見出しが見える。陛下はもとより、新聞、国民も一つであったことが偲ばれる。

■守る気概はあるのか
安倍前総理は、2012年10月25日に、知覧での街頭演説で「今、日本の美しい海や、領土、領海は脅かされようとしているんです。今、私は特攻隊記念館、短い時間ではありますが見学させていただきました。少年たちが、青年たちが、命を懸けて守ろうとしたこの日本を私たちは守っていく、その責任があるんです」と話している。

だが、もし日本漁船が人質に取られ、公然と尖閣の領土を解放軍が侵すとき、中国公船を撃沈せよ、と命令できる政治家はいるだろうか。国を守るのは自衛隊でも米軍でもなく我々国民の一人一人ではないのか。今の日本の体たらくは英霊に対し申し訳ないのでは、とつい考えこんでしまう。疲れはバスの長旅のせいだけではない。