チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

スリランカ旅行(18)

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スリランカ旅行(18)

■キャンディからコロンボ
キャンディからコロンボの距離は約120キロである。スリランカの事実上の首都と2番目に大きな都市を結ぶというのに高速鉄道も高速道路もない。列車では3時間半、バスでも4時間かかる。時速にして30-40キロだ。
娘がGHの主人から聞いたところによると、スリランカは独立して70年以上経つのに、鉄道は植民地時代のままで全く延伸されていない。主人は政治混乱が続くスリランカを嘆いて、また英国に治めてもらったほうがいい、と言っていたそうだ。近年、中国が鉄道、高速道路の建設を申し出ており、一部は完成している。

キャンディからコロンボまで行くにはバスを利用した方が便利で安い。でもIさんのお心遣いでこの区間ジーゼル列車で行くことにした。元々はキャンディで生産された紅茶を運ぶために敷設された鉄道である。便数は少ないが観光客には人気があり、時には切符が売切れになる。早めの手配だったので何とか1等車の3席を確保することができた。15時発であったが早めにキャンディ駅に着いた。特に改札はなく、そのまま発着ホームに行ける。ホームは3つくらい、19世紀からあまり変わっていないようにみえる。始発駅だからどのホームにコロンボ行きが停まっても間違いなく乗れる。ホームを囲むように売店やトイレがある。売店をいくつか覗いて見たがビールを売っていない。昔は出張と言えば発車と同時にプシューッと缶ビールをあけ、時間によっては駅弁を開く、が定番だった。夕方、東京から大阪方面に出張する時は大丸の地下食品売り場で崎陽軒の焼売弁当を買って、ビールと共に食べるのが楽しみだった。列車に乗るならビールでしょう。Iさんと娘が駅の周りを探検してくるというので自分は荷物番として残ることにし、ビールとつまみの購入を依頼した。

■禁煙、禁酒
30分くらいして2人が戻ってきたが、どこにもビールは売っていなかったという。そう言えば3日前、ポロンナルワで運転手のアジさんにビールが買いたいと告げたらスーパーに停車し、ここの2階に行けと言われた。細い階段を上って2階に行くと鉄格子で区切られた一角があり、檻の向こうで、ヒゲのオヤジさんが、何が欲しい、と言う。禁酒法時代のアメリカか。タイならばその辺の駄菓子屋でもビールは買える。同じ仏教国でも酒の販売では違いがあるようだ。

ほぼ時間通りにディーゼル列車はホームに入ってきた。青い色で統一されている。スリランカの列車には1等車から3等車の区別がある。1の数字が書いてある車両へ喜び勇んで乗りこんだが、まあ内装は普通。席に座って車内の注意書きを見ると、煙草とアルコール類は禁止、とあった。車窓から過ぎゆく風景を眺めながらの1杯ができないとは残念だ。車内販売のオジサンが何度も行ったり来たりした。ビールはないので、代わりに熱いミルクティを頼んだが、これが何とも美味しい。

1等車はガラガラで、2,3席前に家族連れが乗っていた。そこの小学校低学年といった男の子が我々3人に興味を持ってチョロチョロする。初めは話しかけても逃げ回っていたが段々慣れてきてカメラを向けても大丈夫となった。コロンボが近づいてきたころ、お父さんが話しかけてきた、というより一方的に話す感じだった。「私は生物の教師で、妻は校長をやっています。私たちはタミール人です」。タミール人であることを言いたかったのだろう。この国は、シンハラ人が75%、タミール人は15%、その他10%という民族構成で、民族差別はほとんどないと言われている。しかし、1983年から2009年の26年間にわたるシンハラ人とタミール人の間で繰り広げられた内戦は、未だにしこりを残しているのではないか。こちらの目をじっと見ながら「私たちはタミール人です」と言い切ったお父さんの表情を忘れることができない。

コロンボで娘と別れる
1時間遅れで列車はコロンボに着いた。ここでIさんの友人であるスリランカ人、ダサナヤカさんが迎えてくれた。この日の真夜中に娘はコロンボから大阪空港へ飛ぶ。それまで4人でコロンボの豪華スリランカ料理を楽しむことになった。どこでも食事は美味しかったが、特に娘は首都の洗練された料理が気に入ったようだった。現地の食べ物が美味しく感じられ、体の調子がよければ、旅は8割方成功と言える。

娘を空港に送ったあと、深夜にコロンボに戻った。Iさんと自分にはスリランカ6つ目の世界遺産、ゴールがまだ残っている。


写真はキャンディ駅、外人用トイレは植民地時代の名残か。車内で、タミール人の子供。