■一路、ヌクスヘ
タシケントから西へ1255キロのところにカラカルパクスタン共和国の首都、ヌクスはある。
タシケントからヌクスまでの直行バスが走っているが、所要時間20時間。体力によほど自信があるという人以外にはお勧めできない。バス料金は日本円で1,200円ほど。因みにウズベクの長距離バス料金を見てみるとタシケントからサマルカンドまで290キロ、300円 同じくナボイまで460キロ、500円、ヌクスからムイナックまで213キロ、220円と、1キロにつき1円という計算になる。
5月にはいると学校は期末試験、卒業試験が始まり、教師は時間的余裕ができてくる。この機会を利用してヌクスへ行くことにした。今回の旅行は自分よりロシア語のできる友人と一緒なので心強い。ヌクスへは1日1往復の飛行便がある。朝7時出発なので暗いうちに家をでる。タシケント空港は国内線と国際線で空港ビルが違う。朝早いのにも拘らず、フランス人観光客のグループがいた。空港内でフラッシュをたいて、警官に注意されている。空港施設は撮影禁止となっている。自分も以前、帰国する人を囲んで記念撮影をして、警官にこっぴどく叱られたことがある。
ヌクス行きの飛行機は50人乗りのプロペラ機だった。大きなトランクを持った客もそのまま乗り込み、座席後部の荷物置き場にトランク類を置く。珍しく定刻に出発、ただし離陸前の安全装置の説明は無し。離陸時、シートを倒している人がいたが、そのシートは倒れたままで通常の位置には戻らないということが後でわかった。飛行時間は約2時間半、簡単な朝食も出た。
■市内へ行くにも一苦労
ヌクスに着くとタラップから飛行場を隔てる金網のところまで歩かされ、そこから外へ出される。市内にどうやって行けばいいかわからない。一度、空港ビルに入り、インフォーメーションという窓口に行ってみたが、英語はもちろんロシア語もよく通じない。それでもヌクス市の地図はなく、市内行きのバスについての情報は得られないということだけはわかった。乗客のほとんどは現地の人で、迎えの車や、駐車していた自分の車に乗って空港を後にする。
こういう場合、旅行者が市内に行くには2通りの方法がある。群がり寄る白タクと値段交渉をする、もう一つは空港近くの幹線道路まで歩いていき、そこで流しの白タクを拾うというものである。いずれにせよ値段交渉が必要だが後者のほうが安い傾向がある。我々も大きな道路に向かって歩き始めたが、もう暫らく着陸する便はないのだろう、また我々の他に客も見当たらないことから、空港の白タクの値段が2人で1500スム(150円)(これでも高いのかもしれないが)になったので、まずはヌクス市内のサビツキー美術館に行ってもらうことにした。
■美術館命名のいわれ
サビツキーはソビエツキーでソビエトの関係の美術館という先入観があったが、実はそうではない。イーゴリ・サビツキーという一人の学芸員の名前に由来する。画家でもあり、考古学者でもあったサビツキーがヌクスにやってきたのは1950年代のことだった。他の多くの芸術家と同じく、インスピレーションを求めて中央アジアを旅していたのであったが、ゴーギャンがタヒチの虜となったように彼はカラカラパクに完全に魅せられてしまった。その後、ヌクス美術館の館長となったサビツキーは、精力的にカラカラパクの民俗美術、ロシアの現代美術を収集し始める。
20世紀初頭、ロシア・アバンギャルドという芸術運動が花開いた。しかし、スターリン弾圧により、成熟する時間を与えられないまま、ソ連では抹殺された。亡命したシャガールやカンディンスキーが高い評価を得る一方で、国内にとどまった画家たちは数奇な運命にもてあそばれ、その多くは「人民の敵」として粛清の対象となり、世に知られることなく悲劇的な末路を辿る。
その散逸した絵画をたった一人で収集した男がいる。彼の名こそイーゴリ・ビタリエビッチ・サビツキー。彼は人生の全てをかけて、歴史の闇に埋もれた作品たちを救い出し、ヌクスの美術館に収蔵した。ソビエト時代に、ロシア前衛派、キュビズム、フォービズムの絵画を収集することは、時として命にかかわる危険な仕事であった。彼の収集した作品は実に5万点にも及ぶ。英国紙ガーディアンは「1920年代、1930年代のソビエト芸術の世界における最も偉大なコレクションの一つ」と称えている。
美術館に彼の写真が展示されている。絵筆とパレットを持った、人の良さそうなチョビヒゲの、この中年男性にどうしてそれだけのエネルギーがあったのだろうか。
写真は美術館と街の子