■サビツキ―について
イーゴリ・ビタリエビッチ・サビツキーは1915年、ロシアのキエフで裕福な法律家の家に生まれた。彼の祖父はロシア科学アカデミーの会員でキエフ大学の教授でもあった。家にはフランス人の家庭教師がいて恵まれた教育環境で育った。長じて芸術関係の学校に学ぶことになるが、そこで培った交友関係が後のロシア・アバンギャルド作品の収集に大きな影響を持つ。1942年に病気になり、そのおかげで戦争に行かないですんだ。そして療養先としてサマルカンドに行ったことが彼の一生を決めることになる。ここで友人の考古学者からカラカラパクの発掘に行かないかと誘われ、発掘チームの一員として1950年から57年までこの考古学関係の仕事に没頭する。
カラカラパク(古代ホレズム王国)はアムダリア、シムダリアの2つの大河に挟まれている。昔から揚子江と黄河、チグリスとユーフラテスのように2つの川に挟まれたところに文明が発展する。ここでの発掘はロシアのレポートによればシュリーマンのトロイ遺跡発掘に匹敵するほどの成果があったといわれている。ここでホレズムの古代芸術品に触れたサビツキーは次第にカラカラパクの自然と芸術に引かれ、ヌクスに移り住むことを決意する。画家として後進の指導に当たってきたサビツキーは1966年にヌクス美術館の館長に推される。そこで彼の本領が発揮される。当時(1960年代)のソビエト時代には、全く忘れ去られ、省みられることもなかったロシア・アバンギャルドの作品の収集に乗り出したのだ。これはヌクスという辺境で、余り活動が目立たなかったことと、地方政府の応援や芸術学校時代の交友関係が彼の仕事を容易にしたという。
■弾圧、粛清を撥ね退けて
彼のコレクションには、いわゆる巨匠たちの絵は一点もなかったが、代わりにスターリン時代の荒波に呑まれ、ついには歴史の闇に消えた無数の天才画家たちの足跡が刻みこまれている。絵のエピソードがまたものすごく、強制労働収容所を出たばかりの男が描いたペリメニ(ロシア風餃子)の絵は「それを食べたかったから」というのが動機だとか、社会主義リアリズムをよしとせず収容所に送られた女性画家が食べ物の包装紙に描いた作品だとか、芸術を管理したり迫害したりする力への怨念に満ちている。
1930年代のソビエトは芸術も政治思想に追従するものとされ、社会主義的リアリズムでなければ反政府的とみなされ、方針に従わない画家はラーゲリ送りや粛清の対象となった。
この辺境の街、ヌクスにも何度か粛清の嵐が襲った。
1930年、カラカルパクスタンに、スターリンは「調査団」を派遣した。その目的は文化や建築物などの「科学的価値」を調査することだった。そして、「科学的価値」がないと判断された100のモスクと20のマドラサは、1934年に破壊され、イスラムの伝統は打ち壊されて、その資材でソ連スタイルの建築物が建設された。スターリン時代にカラカルパクスタン内で粛清の犠牲になった人数は、資料によると、37年から38年の間に4万1千人が逮捕、7千人が処刑、さらに39年からスターリンが亡くなる53年までの間に10万人が逮捕、1万3千人が処刑されている。
■全土に粛清の嵐
別にヌクスだけではなく、こういった粛清の嵐はウズベク全土、いやソビエト連邦全体を吹き荒れた。ウズベクでは1933年、38年にいわゆる知識人と目された教師、小説家、言論人が多数(多数としかこちらの人は言わなかったが)、ただインテリゲンチアという理由で銃殺された。また50年代にも羊を多く飼っている富農など、持てる階級が資本家の手先という理由で処刑されている。
その処刑場跡がタシケントのテレビタワーの道路を隔てた向かい側にあって、モスク型のドームを持つ小公園となっている。
独立したのだから、ソビエトを非難する声が上がるかというとそうではない。ウズベクの人々は現ウズベク政府にソビエト政府と同じ陰を見ている。ソビエトを非難することは現政府を非難することになり、その先にはラーゲリと粛清が待っているということが決して過去の話ではないことを身に沁みて知っているからだ。
深く暗い歴史の中で確固とした理念を持ち、勇気ある行動を取った一人の男が中央アジア最高の美術館をこの辺境の砂漠の街、ヌクスに作り上げた。その事実に深い感動を覚えるのは自分だけではあるまい。
写真は街の子とバザール