チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ラオス旅行 4

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ラオス旅行(4)

■ガイドブックに代わるもの
今回、クレジットカードを家に置き忘れたが、もう一つ痛い忘れものがあった。それはUSBスティックである。ルアンプラバンの見所、レストランの口コミ情報などのHPアドレスをコピーしてあった。これをインターネットカフェのPCに差し込めば、最新の観光情報が得られるはずであった。ルアンプラバンを訪れる欧米観光客は押し並べて「ロンリープラネットラオス編」を持参し、街のあちこちで広げていたが、もうガイドブックに頼る時代は去りつつあるのではないか。ルアンプラバンでもWi-Fi無線LAN)使えます、無料ですというカフェやレストランがいくつもあった。チェンライ市内のホテルでは無線LANは当たり前になっているし、ルアンプラバンの次に行った山あいの街、ルアンナムターでもWi-Fi完備のカフェはあった。これからは小型PCや携帯を持ち歩いて、インターネットから観光情報を得る時代になってきたように思う。
USBスティックがあればニュースやお気に入りのブログも楽しめたと思うが、せっかくの旅行、自宅にいるのと同様にPCに向かって時間を過ごすのもどうかと思われる。家に置き忘れて正解だったかもしれない。

■王宮博物館
ランサーン王国は14世紀から1975年まで存続した。1975年はベトナム戦争終結した年である。ラオスにおいても米軍の撤退により共産勢力であるラオス愛国戦線(パテト・ラ-オ)が実権を握り、王制を廃止して共和制のラオス人民民主共和国を樹立した。この時、新政府の粛清を恐れて、王族、連合政府高官、軍人、富裕者層など30万人が国外へ脱出したという。ランサーン王国最後の国王、サワンワッタナー国王は、国外に逃れた王族の身の安全を保障するという条件で退位を受け入れ、国内にとどまった。しかし、1977年に王妃、皇太子と共に身柄を拘束され、ラオス北部ビエンサイの「再教育キャンプ」に収容される。反体制勢力が親米派の国王を擁立して政府転覆を謀ったからという理由だった。国王夫妻、皇太子は78年から80年にかけて死去したといわれるが、死因が極度の栄養失調なのか、他殺なのか今でもつまびらかではない。政治的状況からラオスではこのことを話題にすることはタブーとなっている。

1977年まで国王一家が住んでいた王宮が、今は博物館となって一般に公開されている。王宮はフランス植民地であった1904年に建てられた。メコン川から賓客が迎えられるよう桟橋もある。
博物館に入るには王宮左手のロッカールームに荷物をすべて預け、履物をここで脱ぐ。カメラや携帯は持ち込み禁止だ。お寺と同じく肌の露出度が高い女性は入れない。展示物は各国の贈呈品が中心。日本からは漆塗りの筆箱、有田焼の壺、東京都知事の贈った平和の鍵等が展示されていた。部屋数は12,3だろうか、意外と質素である。木の床は歩くとギシギシと音がして、古い校舎の中を歩いているような気がした。庭園の一角にガレージがあり、戦前に製造されたと思われるキャデラックや初期のトヨタジープなど数台の車がロイヤル・カーとして展示されている。国王ご一家はこれらの車でドライブを楽しまれたのであろうか。

■フランス風の街を歩きながら
王宮博物館の隣が王室ゆかりのお寺、ワット・マイである。18世紀の創建というからそれほど古いものではない。この寺はルアンプラバン様式で5層の屋根が特徴だ。境内は市内のお寺の中では一番広い。ガイドに導かれて、ファランの団体が次から次へとやってくる。フランス語、ドイツ語、英語、ラオスはフランスの植民地だったせいか、フランス人が多いような気がする。彼らの目にこの街はどう映るのであろうか。フランスはラオスを統治するにあたってベトナム人を官吏として登用し、ラオス人を虐げた。ラオスがフランスの植民地になった原因の一つはランサーン王国が国を統一するためにフランスの軍事援助を求めたことにある。

幕末にフランス公使ロシュが徳川幕府に北海道をカタとして軍事援助を申し出たことがある。同時期、イギリス公使パークスが薩長に軍事、資金援助を持ちかけていた。当時の英仏は冷戦時代の米ソのようなものだった。幸いにも我が先人は両国の申し出を謝絶した。もし幕府、薩長が英仏の援助を受けていたら、日本は内戦で焦土と化し、東京はこのルアンプラバンのようなアジアのシャンゼリゼの様相を呈し、鹿児島湾は香港のヴィクトリア湾のようになっていただろう。
ワット・マイを出てシーサワンウォン通りを歩きながら、白人帝国主義の悪辣さを正確に理解していた150年前の先人の、国を思う気持ちに思いを馳せた。


写真上の5枚は王宮博物館、
下の2枚の写真はシーサワンウォン通り