チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

軍馬慰霊碑 2

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

軍馬慰霊碑(その2)

朝7時にチェンライを出発。国道1号線、別名アジアハイウェイ2を南下する。道路はおおむね片側2車線、対向車も追い抜いていく車もほとんどなく、実に走りやすい。時折、自転車に乗った老人や牛などが通るから高速道路ではない。しかし快適に運転できるので気をつけないと時速100キロ、直線では120キロくらい知らないうちに出てしまう。一応、制限速度90キロといわれているが、守っている車はほとんどない。チェンライ市内ではスピード違反や酒酔い運転の取締りがあり、外人だと2000Bの罰金とも聞くが、通常、無免許運転を始めとする交通違反の罰金は一律200Bだ。安い。それに田舎の国道で交通取締りをやっているのを見たことがない。警察の目を気にせずに運転できるだけでもタイに来た価値がある。

ランパーン、タクを過ぎてナコンサワンに着いたのは3時過ぎだった。550キロを一気に走ったことになる。市内は思ったより車が多い。一応、ナコンサワン県の県庁所在地であり、人口は7万人ほどだ。旧日本陸軍が駐屯していたお寺だから、市内にあるのだろうと適当に見当をつけた。ナロン師に貰った名刺が頼りだ。車を停めて、若い坊さんにワット・トゥーナムの場所を聞いたが要領を得ない。タイ人は道を聞かれた場合、知らないと答えるのは相手に失礼と思い、適当な方角を指差すなどと聞いたことがある。結局、6人の人に聞いて、30分ほどあちこち行ったり来たりしながら何とかお寺にたどり着くことができた。市内から数キロ離れた所にあった。

ワット・シーサワンサンカーラーム(シーサワンサンカーラーム寺)、通称ワット・トゥーナム(トゥーナム寺)はスコタイ朝以前から存在したナコンサワン県最古の寺である。トゥーナムとはタイ語で「水を汲む」という意味だ。古来、官吏が誓いの水を飲み、国王に忠誠を誓う儀式をとり行う寺として建立されたという。日本で言えば別格官幣大社か。1976年にはプミポン国王夫妻、シリトン王女様達がお参りにこられ、金一封を寄付されている。

境内は広い。まず目に付くのが金色のパゴダ(仏塔)だ。本堂もかなり立派。数多くの仏舎が寺格の高さを感じさせる。馬の慰霊碑はすぐ見つかった。2つある。そのひとつに、
「1946年2月連合軍の命令により多数の軍馬を射殺埋葬した。その霊を慰めるためこの碑を建てる。
1990年2月
山口県防府市 井上朝義
協力 紫陽会山口県支部 北村義人」と刻まれている。
もうひとつの慰霊碑には「軍馬よ、安らかに眠れ」というプレートが張ってあった。タイ国内には戦没者の慰霊碑は数多くあるが軍馬の慰霊碑はここだけだそうだ。

建立者の井上氏が何度もこの寺を訪れていることが寺の訪問者名簿で確認できた。彼はクンユアムのタイ日本友好記念館にも多額の支援をしている。実はこの5月に記念館のチューチャイ館長夫妻が来日する。歓迎パーティに山口県から井上氏が上京するとのこと。現在90歳、今でも幼稚園園長としてご活躍のようである。

70頭の軍馬をここで射殺した、と書いてあります。ナロン師から貰ったトゥーナム寺のパンフレットをジアップ先生が授業時間に訳してくれた。でもなぜ、馬を殺せ、と英国軍は命令したのでしょう? 英国は動物愛護の国ではないのですか? 軍馬はタイの人たちに役立つ。それを彼らは望んでいなかったのでしょう。連合軍は日本がタイ各地に架けた橋を破壊しました。泰緬鉄道では、戦後、ビルマ側の線路をはずして本国へ持ち帰っています。これが全線残っていたらタイとビルマの発展は今と違ったものになったかもしれません。

白人は、ビルマラオス、インド、インドネシアベトナム等に日本軍がいなくなった途端に、再びアジアを植民地にしようと軍隊を送ってきました。日本の頑張りを見ていたアジアの人たちは有色人種でもやれると宗主国に戦いを挑みました。そうやって独立を勝ち取ったのです。アジアの人たちを蔑視し、有色人種は白人にひざまづくのが当然と思っていた彼らはアジアの発展などこれっぽっちも望んでいなかった。60年以上前の人種差別意識とはそのようなものです。60年前の価値観で考えれば、タイ全土で行われた軍馬抹殺は当然のことだったのです・・・

ジアップ先生と英語でこんな話をしているので、さっぱりタイ語がうまくならない。

写真は慰霊碑、ナロン師との記念写真、お寺で貰ったパンフレットです。