タイ語の勉強
こちらに来てよかった、と思うことのひとつは、新聞やテレビを見なくて済むようになったということである。こちらでは衛星テレビでNHKニュースを見る程度だ。芸能人が亡くなって,「元気を貰っていた」と言って泣く人の顔を見ることも、民主党にヨイショする新聞を読むこともない。テレビの娯楽番組に至っては日本にいたときから余り見たことはないし、見るだけ時間の無駄というものだ。野球中継は日本にいたら、多分だらだらと見続けて、試合途中でテレビ中継が終るとラジオにかじりつく、といったことをやっていたに違いない。考えてみればこれも時間の無駄だったと思う。あのプロ野球観戦の時間を語学とか民俗学の勉強に当てていたら、今頃は、と思うのはやはり凡人の証拠。
あるサラリーマンは通勤時間を利用して語学の勉強に励み、数ヶ国語がぺらぺらになったという。休日と終業後の時間を利用して、小説を書き、芥川賞を受賞した会社員もいる。シンクタンクに勤務していた頃、懇意だったスウェーデン人教授は、家族と1月ほど休暇でハワイに滞在している間に、日中は子供と浜辺で遊びながら、本を1冊書き上げたといっていた。
新聞やテレビがないからといって、何か有益なことやっているのかといわれると頭を抱えてしまう。飲み歩く、ということはないし、映画館に行くこともない。大体、午後8時過ぎにはベッドに潜りこんでしまう。我ながらしまりのない生活であると思う。日本にいたら、買い物、炊事、洗濯など家事に時間をとられていたと思うが、こちらでは2人の女中さんが母の介護の傍ら、家事全般をこなしてくれるので、自由時間は有り余るほどある。それなのに、毎日が過ぎていく。小人、閑居して不善をなす、というが積極的になす不善すらないという日々である。
これでは人間、駄目になる(もういい加減だめになっているのであるが)と始めたのがお稽古事の「タイ語」である。いくつか学校を回って、タイ語を英語で教えてくれる学校を見つけた。個人授業で1日1時間、習い始めた当初は週5日やっていたが、予習、復習に時間をとられ、楽しみの温泉にも行けなくなった。そこで月、水、金の週3回授業に変えてもらった。これがもう4ヶ月以上続いている。
ところで昔の男たちは「お稽古ごと」をよくした。夏目漱石や高浜虚子は宝生流の謡を稽古していた。菊池寛は将棋、芥川龍之介は俳句。山縣有朋は井上通泰に短歌の指導を受けた。内田百閒は宮城道雄について箏を弾じた。現代でも、文人はもとより大会社の役員クラスの人の多くは何かしらお稽古事をしている。
なぜ人はお稽古事に励むか。
その理由の一つは、自分の未熟さを知る、ということである。何度やってもタイ語声調を間違える、子音字のコとチョの区別が付かない。同じテストをされて、同じところを間違う。この間違いのおかし方は語学だけではなく、テニス、いやこれまでの人生でおかした間違いに何かしら共通しているように思う。お稽古事をする人は、自分の間違え方の共通点を趣味と本来の仕事の中に見出し、本業での失敗リスクを小さくしようと心がけているのではないか。
昔、園田直という政治家がいた。彼は、教師、医者、銀行員の3種の職種の人とは付き合えないといっていた。教師は生徒、医者は患者、また銀行員は融資先とすべて相手が弱者だ。面と向かって批判はしてこない。そうなると自分は偉いと思い込んでしまう。自分の未熟さが自覚できない人は向上心や自己練磨からは遠ざかり、鼻持ちならない性格になりがちだ。
タイにいたら、微笑みの国ではあるし、外人でお金持ちということで女の子はちやほやしてくれる。教師や医者以上に傲慢になっても、邦人仲間は利害関係がないから誰も注意してくれない。
それではタイ人には通じませんよ、とジアップ先生(画像)に怒られ、何度も同じフレーズを繰り返す。何かしら頭に残って、少しだが進歩が感じられる時もあるのだが、いつも我ながらだめだなあ、と感じる。お稽古事で人格が円満になるとは思えないが、常に自分の未熟さをはっきり自覚できることは、向上心の源であるから決して悪いことではないと思う。新聞もテレビもないのだから、もう少し時間をとって勉強すればいいのだが、わかっていてもそうできないところが、自分の未熟さのゆえんでもあろう。