チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

女中2名、揃って解雇

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女中2名、揃って解雇

タイに来てまず、ブアという30代半ばの女中を雇った。1週間後にノーイという40代の女中にも来てもらった。介護者2人体制でうまくいくかと思ったが、母の世話が大変ということでノーイが1月ほどでやめてしまった。そのあと、ブアの紹介でブアの村に住むシーサンという女性に来てもらった。大人しい農村女性だったが、度々興奮する母をもてあまして、彼女も2週間ほどで田舎へ帰ってしまった。

母の病状は波があり、特に3月は長年、母の世話をしてきた兄が一時帰国で不在だったため、不安定な精神状態を示すことが多かった。シーサンも丁度悪い時期に母の相手をしていたことになる。シーサンがいなくなって、ブアがあちこちに電話をして探してくれた結果、チェンライから250キロくらい南にあるランパーンという町からデンと名乗る40代後半の女性が現れた。これで新しい女中は3人目だが彼女も以下の経緯で辞めることになる。

彼女たちは母と一緒に1階の居間で寝る。一人は母のベッドに密着させたベッドで、母と文字通り抱き合って寝ている。病気のため、母は夜興奮して寝つかない時がある。そんな夜は1晩中、叫び続ける母の背中をさすりながらなだめている。彼女たちと食卓を共にすることはない。これはこちらの習慣だ。台所で自分たちのおかずを別につくり、カオニャオというタイもち米を食べている。いつ食事をして、何を食べているのかはよく分からない。自分が渡すおかず代、1日200Bの範囲で我々全員暮している。

ブアは買い物に行くと渡したお金で買った品をメモしてお釣りはきちんと戻すし、電気、水道など公共料金の支払いも代行する。邦人に聞いてもあまり他にはいない有能な女中である。経済観念もしっかりしている。市場で買うと高いから、と彼女に勧められ、時折、タイ米や果物を仕入れに車で自宅から20キロくらいのところにある彼女の村に一緒に行くようになった。

そのうち彼女が村人に自分をフェーン(愛人)と紹介している(らしい)のに気付いた。冗談ではない。3月に入ったころ、バンコクで介護の仕事があり、月給は8千バーツ、だからあと千バーツ給料を上げてくれないならバンコクへ行く、と言い出した。邦人に聞いてみると今の給与は決して安くない、賃上げ要求には切りがないぞ、と忠告されたので、日本経団連と同じく賃上げには応じないことにした。

その後もバンコクに行ってもいいか、と度々聞くので、いい加減、嫌気がさしてきた。バンコクに行くと言ったり、やはりやめたと言ったりと、こちらを試しているのだ。果てはここを引き払って、山と果樹園に囲まれた自分の村にみんなで移り住もう、などと言い出す。自分は住み込みの女中を使った経験がなく、主人、使用人という画然とした身分があるのだろうとは頭でわかっていても、実際にそのけじめをどうつけていいのか分からないところがあった。

兄は、前からブアは水準以上の女中であることは認めるが、他に女中がいないわけではない、けじめをつけないと後で困るよ、と小言を言っていた。兄が一時国から戻った翌日、ブアが今日で辞めるから日割りで給料を払えという。余り度重なったので、じゃ、希望通り明日から来ないでいいです、とブアに宣言すると、もう一人の女中デンも一緒にやめるという。女中がいないと我々が往生するだろうと足元を見たのだろうか。ここで弱みを見せては後々大変だ。日本でやっていたことを兄と二人で新しい女中が見つかるまでの間やるだけのことではないか。二人一度にやめても構わないよ、と言いわたした。

するとブアは態度を豹変させて、これまでの話は冗談でした、是非このまま勤めさせて下さい、と懇願し始めた。おお、そうか、と態度を変えれば甘く見られる。もう決めたことだから、と彼女に告げて出て行ってもらうことにした。涙を浮かべて母に別れを告げるブアを見た時、彼女は2月以上ずっと泊り込みで母を世話し、1日も休みを取ったことがないことを思い出して、少し心が痛んだ。